皮をむいて実そのものを味わう以前に、
何か言えることがあるかもしれない。
未熟で、分かることなんてひとつもないけれど、
甘夏をひんやり握る、
このおもたさを味わう、
顔を寄せて匂いをかぐ、
ことなら少し、できる。
なんてことない日だった。
なんてことない授業で、いつもと同じような教室の雰囲気、知った顔の先生が黒板の前に立っている。
わたしがこの景色を覚えているのは、その日の授業ではじめて『檸檬』を読んだからだった。
とがめるような雰囲気が漂うフロアを横切る。
華やかな洋服と香水、ボディショップをひやかしてエスカレーターをあがる。
気づくと「そごう」にいた。
当時、丸善に行ったことがなかったわたしには「そごう」だった。
車。
私はタクシーにひとりで乗ったことがない。
一回はあるかもしれない。
でもぜんぜんない。
これからも乗ることはあんまりないと思う。
なのにタクシーに乗ることになったらどうしよう、ということを想像してひとり怯えていたりする。
もちろん免許も持っていない。
思い出したのは車だった。
車は大きく揺れている。
運転しているのは祖父で、むくんだ手があるギアのポケットには何かいろいろ詰められている。
車内にはうっすら砂が積もっている。
祖父は農家で、その時分はまだそれに乗って山のなかにある畑へ行ったり来たりしていた。
でもそれは私が寝て起きるあいだに行われていたので、朝食につく時にはもう畑に行った後で、祖父はランニング姿で座っていた。
祖父の肌は白すぎるくらい白く、大きな茶色いしみが顔や禿げ上がった頭にいくつも浮かんでいた。
祖父との記憶はいつも夏だった。
私が夏休みにしか会いにいかなかったから。
ある夏、私はホームセンターで一輪車を買ってもらった。
イヤホンが壊れた。仕方がないので歩いていると、夜だなあと思って油断すると夜が隙間から入り込んでくる感じがする。月は出ていなかった。人とぜんぜんすれ違わないのは、今日が日曜日だからだ。
電車の中でイヤホンをしないでいると、自分が裸になった錯覚がすることがある。
世界が新鮮で、なんだか一枚足りない感じがして、頼りなくて恥ずかしい。
本を読んでいると、ある日突然
「今!私が!読むべき本!」
が分かるようになる時期がある。
言い方を変えれば、本が「光っている」ときがある。
『ストーナー』は光っていた。
本棚を見ていて何となく手に取って、これを開いた私は仰天した。
「はっきり言って、いま死んでます。」
そこから始まる絵本は、もしかしたら他にもあるかもしれない。
でもそのあとで
「てか、踊ってます。」
と続く絵本は他にないんじゃないか、と思う。
私が4歳くらいの時に家に来たミニチュア・ダックスフンドのパルは、やんちゃで人懐っこくて、雷が大きらいで時にはうるさい、どうしたってかわいい家族の一員だった。
そんなパルに私たちは嬉しそうに文句を言って、一緒に走って転んで笑っていたような気がする。
ああ、ディーン。
もうすぐ忘れてしまう気配がする。
はじめて私の中に「わたし」が介入してきた日のこと。
どうかな、私じゃない「わたし」が私に話しかけてきた。
今では「思考」とか「気持ち」とかで片付けているけれど、
あの日の私はまだ5歳とかで、とにかくびっくりした。
それで愕然とした。
一生「わたし」と生きていくのか、と。
まれに見る「この世にたったひとつ」の作品群の上にすわり、マンガを読んだりラジオを聴いたりしている。
──ブルーノ・ムナーリ
日々俳句を詠んでいると、ミニスコープを手に入れる瞬間がある。
ビシッとピントが合う瞬間が。
しかし近すぎればいいというわけではない。品がないのだ。
だからって遠すぎてもいけない。
広がりすぎた意味は、ひとの心には届かない。
手にした石の中に、ことわりのようなものを見たことが誰しもがあるだろう。
もっと難しいと思っていたものが実はこうかもしれない、と突然閃いたことが。
どうしようもない男だという。
そういえば私はどうしようもない男のことばが好きだ。
尾崎放哉、尾形亀之助、カフカもどうしようもなかったのではなかったっけ。
自分に固有の、偶然性の余らせ方を肯定する。
──センスの哲学より 千葉雅也
『アメリカの鱒釣り』を書いたブローティガンも相当ぶっ飛んでると思うが、これを群衆が肯定したあるいはバッシングされたという事実は本当に面白いと思う。
意味の無意味。
私はいつもそのことについてため息をつく。
だからって意味が無意味なわけがない。
無意味の意味が欲しいわけじゃない。
ただそうじゃないんだけどな、と思うだけである。
草野心平の詩。
長新太の絵本。
ぶっ倒れた丸太の彫刻。
アラーキーの写真。
パンクだ、と思う。
パンクは私が生まれた時にはもうあって、私はだからパンクの残滓のようなものしか知らない。
矢沢あいの『NANA』から赤いタータンチェックと安全ピン、せいぜいチェーンのついたボディピアスとか。
当時小学生とか中学生だった私にとって、あれはすごくパンクだった。
幸子の「わざとだよ?」とかね。
ヴィヴィアン・ウエストウッドの財布をはじめてもらったバイト代で買った。
もちろん中古だった。
使いにくさなんてどーでもよかった。
私は16歳になったばかりだった。
シド・ヴィシャスはすでに死んでいて『DIY』もブティック『セックス』も知らないまま過去に葬られていた。
ヒッピーやミシマ、サンフランシスコなんかのカウンター・カルチャーはほとんどなーんにも知らなかった。
バロウズも知らなかった。
ポエトリー・リーディングも。
知らなくても生きて行けた。
──つまり、自分のことを少しばかり忘れてしまうようになります。
-ルイジ・ギッリ
その写真を見たとき、私はことばを追いかけていた。
必死に追いかけて、例えば詩にしていた。
こんなことをして一体何になるんだろうか。
でも私はやめることができない。
──ドライブから帰ってきて、気に入った場所が見つかったときには、こんなふうに言いながら車から降りてくる。「すごくいい写真が撮れたぞ!」「何の写真?」「え? 覚えてないさ、見てみないと」······
はじめて見たときから、ギッリの写真が好きだった。
でもどうして好きなのかはちっとも分からなかった。
その彼の写真たらしめているものは、一体何だろうか。
ある朝、ベッドの中で、虫に変わっていた*
「あれは、まさに文学だった」と店長は言った。
そうなのである。
フランツ・カフカを知っていて、あの気持ちの悪い虫の話を思い出せない人はいない。
わずかな光が言葉を通して洩れてくる
カフカの多くの作品は未完で、その断片的な言葉たちは確かに光を帯びている。
完成されなかったということは、カフカにとってひとつの結びの形であったのかもしれない。
その一瞬の閃光のために時々、私たちはおろかにすべてを賭けてしまう。
人間の体のくっきりとした輪郭が怖ろしい
俳句っていったい、何だろうか。
日本は日本人は、もっとやくざで汚くて壊れていて、魂だった。
(え、たましい?)
長い外套、看板にも雪が降ってる。
洋風の帽子を被る男、女の鬢えりあし。
こどもおぶられたこども。
プロレタリアの文字。
ベンチの上でくつろぐ老人の、裾から覗く白いふくらはぎ。
私ははっとする。
彼らは戦争を知る人たちだ。
ひとり残らず。
すごい写真家というのは、その時代をかならず写しているという。
過去を未来を夢見るでもなく、ただ今を見ているのだ。
それを店長から聞いたとき、何だかほっとしたのを覚えている。
すごい写真を見たときのむずむずとする「これ」の、とりあえずひとつは分かったからだ。
──そしてまた見てきた、コレクション展「光みつる庭 | 途切れないささやき」
時刻11時半。時間がなくてもう一度見たいものを見るだけ。
1階。堂本右美の『此処彼所』。
学芸員さんに聞くと写真を撮ってOKとのこと。
しばらく見つめ合う。······
これを見てると私は誰もいない南の島?
ヘキ地のかくれ家のような孤島にひとりいる。
ここは家の中で、大きくてすんだ窓の向こうにあるターコイズブルー?
(下にエメラルドとふりがな)
とにかくすごい青色の海を見ている。
聞こえているのは波の音と、温かい風の音。
犬がいるかもしれない。
私の足元で眠る安心しきった犬。
ここは護られた家。
陽がかたむいてきた。
もうすぐ日没らしい。
*
たとえば、どうして私は人間なんだろう。
あっカラス。
カラスが自転車のカゴの中を突っついてる。
言い方を変えよう。
どうして私はそこにいるカラスではないんだろう。
*
私が人間たる理由はなんだろう。
形だろうか。
大きさだろうか。
この難解な心だろうか?
ずるばっかする、脳みそだろうか。
頭で考えてみたことを書き出して小説にしたら、クソおもんないものになったのでビリビリに破いて捨てた日の夜に聞いたサイレンのことを話したら眉をひそめたあなたと午後、一緒にびわのアイスを食べた。晴天。
私にはじめてコーヒーの美味しさを教えてくれたあの人は、今どこで何をしているんだろう。
感傷的になりたいわけではない。
でもただ確信できるのは、あの人が今朝もコーヒーを飲んだということだ。
この不確かで欠落的な確信こそが、たとえば芸術において美しい。
美しい写真を前にした時、わたしの背筋はぴんと伸びる。
その人があそこに立っていた時のあの感じというのが欲しいので*
──舟越桂
彼の彫刻が人という器から溢れれば溢れるほど、人間のにおいがするのはなぜだろう。
こわい顔をしたスフィンクス、肩から掌が咲く、ひれのようなものを金具で留めた、具象彫刻の線を越えた作品たち。
東京都現代美術館ではじめて舟越桂彫刻を見た時「そこにいる」と思った。
本の装丁でよく知っている、独特の気配を漂わせる表情の人。
近づくと青っぽいと思った。彩色の色ではない。
たしか『遅い振り子』だったと思う。
その時は楠だと知らなかったけど、よい香りがしたことを覚えている。
わかるよ、と思った。
もちろん彫刻は喋らない。
喋らないけど、言葉ではない何かで受け取った気がした。
そして、その瞬間にわからなくなる。
気がつくと答えのない「問い」が水面にたくさん浮かんでる。
足で蹴るとそれは、揺れてぶつかりあったりするだけ。
寄せてはかえす水を、ただそれを見ている。
それが人の一生だという。
電車の中で談笑する女子高生、眠そうな母親の指先に、散らばる設計図、酩酊する老夫がたてる、ビニール袋のかさこそという音。
いま、どれだけのひとがやりたくない一生をしているのだろう。
座った分だけ高くなる空 せきしろ*
「そら当たり前だ」とあなたは思うだろうか。
私には思えない。
鳥肌が立って「しまった」と思う。
やられた、と思う。
自由律俳句とは、と検索してWikipediaを見ると、膨大な時系列の最後にこの秀句が出てくるので、多分これが彼にとっての代表句、ということになるのだろうか。
抽象から生まれた緻密画が点に、印象派からまた抽象に移ろってゆくように、自由律俳句というものもきっと、しかしはっきりとした意図を持って、荻原井泉水から放哉へ、山頭火、住宅顕信たちの力もあって、定型からゆっくりと解放された。
そう思うと、写真やインターネットの出現によって追いやられた分、こちらにだってよいことはあるのかもしれない。
絵本を読んでいると「エッ」と驚くことがある。
いま確かに動いていたんですね。絵が。
といっても、絵が動き出したのはここ最近のことだ。
彼の絵本はふつうナンセンス(というものに触れてきたわけじゃない私が言うのだからテキトーに聞き流して欲しい)と言われる。ページをめくっていると、いちいちそこに立って、ジカで考えた、という感じがある。
この手触りが、私は好きだ。
前例とか技法とかたぶん、ものすごく含んできた絵画人生だったと思う、でもそれを否定するでも模倣するでもなく、ジカで考えた。
そうでないとこんなすんごい絵本を、生涯描き続けることなんてこと、できません。
そして子どもたちに対して諦めるも望むのでもなく、信じていた。
信じることをやめることができなかった。
スモークブックスで働かせてもらいながら私は、彼の言うナンセンスを引き継ぐ絵本をもう何冊も見つけてきた。
いまこの電灯の下でふすふす笑ってる私も。
長さん、未来は明るいです。
ひすい色の皿の上に、ひとつだけ残ったおいも。
せいろで蒸した、くし切りのきたあかりだ。
または、図書館の階段を登った踊り場から見下ろすカラーコーン。
手放したイチョウ、ハナミヅキの、さくらの道。
こんなことが、急に輝き出す11月。
小説を読んでいる時、私はこの「見えた」瞬間を待っている。
*
先日、先輩の家の猫が死んだ。
20歳という大往生であったらしい。
昔コーヒースタンドでアルバイトをしていた時、ラテアートの練習と謳って、牛乳を一日一本泡立ててはシンクに流し、練習していた日々があった。
その時私は「こういうものなんだ」と思ってそれ以上考えることをやめたけれど、今思えばあれは、何か物凄いことが起こっていた。私は少しずつラテアートが出来るようになっていった。
きっかけはひょんなことだったけれど、いつからか動物性の食べ物をなるだけ摂らないようになった。牛乳が豆乳になって、ソーセージがちくわになった。魚と鶏卵はありがたく戴く。ペスカタリアンというらしい。今日まで、あの日の後ろめたさを私はどこかで感じ続けていたのかもしれない。
5分。
これは私が『バングローバーの旅』を読み終えた時の体感時間である。
実際はたしか、1時間近く経ってたんでびっくりした。
「おっもろ······」と思った。
「わたりおわったら また もとに もどります」
そうかーと思う。
渡り終わったらまた元に戻るんだ。
この時のはしたろうの顔もちゃーんと「もとにもどる」顔なのだ。
「はしのはしたろう」は、ピンク色で青い足の生えた、なんと橋だ。
橋が主人公。
彼は「うーん」とからだを伸ばして、
こっちとあっちにからだを掛けて、
みちみちで困ってる動物たちを助けてくれる。
私が特にお気に入りなのは、
写真を見て、音が聞こえるわけじゃない。もちろん比喩としてはそうだ。「漣が聞こえるようだ」「彼らの会話が手に取るようにわかる」でも実際は、何も鳴らず動かず、今ここにあるのは窓をうつ6月の雨と、扇風機の風の音だけ。
無意識のうちによく計算され、ないような矜恃をバカに気にして、たくさんの目や、誘惑するコンサバティブな光。そんな写真が巷の海にあふれてる。いいものも、よくないのも多いので、水面がゴロゴロして、浸したはずの足ゆびが見えなくなる。
ともこさんが「パーフェクト・デイズ面白かったよ」というので、さっそく近くのレンタルビデオ屋さんに行った。「新作だけど7泊8日」の棚には〜···役所さんが居ない。おや、と思い調べてみると、DVDのリリースは7月で(今日は5月でした)、しゃあない私は「バビロン」と12回目くらいの「ハウルの動く城」を借りて帰る。夜、梅雨が近い風が吹いてる。
スープの中に、チーズを入れるか入れないか。
雨が時々止むので、傘を持っていくかどうか。
縞々か、赤いのにするか靴下。
抜け殻の絹靴下を春の樹に 澁谷道
「アタシ1分の猶予もないんです」という。そうよ、と遠くで誰かが同意する。声の方は見ないわざと。においで分かる。何かが私を誘惑している。そう、それは絶対。そんなことを今ここで、ためつすがめつしたいと思う。
花冷えの櫛落ちてリノリウム滑る 澁谷道
駅に向かう途中、めがねを忘れたことに気がついたので、引き返した。私の目は良くはないが、悪すぎるということもないので、日中めがねなしで過ごすことも多い。「目によくない」ありがたいご意見はとりあえずスルーします。掛けなかったり持ち歩かない日なんかもある。でも今日はちがう。『生誕120年 棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』の初日。この日を楽しみにしてたんだ。
絵は芸術家としての矜恃を持ち、それでいて子どもみたいに無邪気だ。
『ヴァンス礼拝堂』のあれ!てててててって、どうやったってにこにこしてしまう。ああユカイ。
いのくまさんの言うマチスの「描いて描き死ぬ」。ストイックな彼であって、りんごひとつに気の遠くなるほどデッサンをする。そらで描けるようになるまで描く。苦しい日もあったろうと思う。でも楽しんでいる、というのがいい。
最近読んだ本の中に、ユジノサハリンスクと豊原が出てきた。
ふたつは同じ場所を指すのだが、時間が違っていた。ひとつは林芙美子のもので、もうひとつは東京するめクラブのものだ。どちらも紀行集で思いがけず出会った。きもちのよい旅だった。
夏がきらいなのに、夏の記憶ばかりが美しいのはなぜだろう。
夏がきらいです。
私は暑がりだし、それに夏の命はすごく美しいので、春のことなんてすぐに忘れてしまうから。
イギリスの夏は短いという。
日本の夏はやたらと長いですよね。
ちょっと前、ある雑誌のバックナンバーをウェブアップしてた時、もうなん度も目にした写真家の名前が目に入ってきて
「まーチョットみてみっか」
とページをめくった。
私はいったい、今まで何を見ていたんだろう、と思いました。
どれも同じだ、といつの間にか私のどこかは思うようになっていた。
あれ、私だ、とおもう。
すばらしい抽象画に出合う時、私のどこかはいつもそう思っている。
あれ今こうまんだって言いました?
またこれは違う、ということだけが分かるということがよくある。正解がわからないのに、これではない、ということだけを確信している。
ええ高慢でいいです。
「これから現前してくる世界の予感」小松崎広子
鳥が好きです。
彼らのこびないよそおいが大好き。
例えば青い鳥で有名なカワセミなんかもそうですが、彼らの青い羽根は青い色素をもたない。*
なのに青くきらめくなんて、ほんと夢みたいに美しいと思いませんか?
「どうしてこの作品が、こんなにも有名で、こんなにも多くの評価を得られるんですかね」
おそらくは半世紀は経ったであろうポップアートについて、私はバカみたいに真面目に聞いた。
私はそれが、聞くのにはいくぶん遅すぎていたし、拙劣な質問なんだと分かっていたので、半端ににやついていたんだけれども、目を合わせた店長はくすりとも笑わない。彼は人の真摯について笑わない。
この世の万象はすべてメタファーだ、と彼は書いてきた物語のあちこちで言う。だから私は読めば読むほど二重の視線で物語を読んでいることに気がつく。
私と、私を見ているわたしだ。
静かで無邪気、真実でみずみずしく、幼くて同時に老成している。
これは真実の虚言だ、と思う。
その言葉をことばとして受け取る前に私は何か気づいている。この揺れを否定しないで、と私のどこかが懇願するように言う。その感情の揺れは、私の場合なみだになって現象になる。
それは限りなく祈りに近い。
詩人は「んガッと掴んでぱっと放す」ということに長けています。
最近は何でも手放せ、と言いますが「手放す」とは「んガッ」と掴めた人だけが出来る、ということも覚えておく必要があります。
未来とは 過去の方角から走ってくるのだ
物凄いことばに出逢うと「え?何コレちょっと信じられない」と思います。それがどういう意味か、どんな真実が隠されているのかという以前に私は茫然と恍惚と、立ちすくみます。
ああ今絶対撮り逃した、と思うことがよくあります。
今日私はそれで、撮りたい瞬間を二度逃した。カメラを持っていなかったんです。
2分後、いや明日になっても私は後悔しているだろうと思いながらとぼとぼ通り過ぎます。
写真は決定的な美しさを提供してくれる反面、それは残酷なまでに刹那的です。
そしてそれが刹那的であればあるほど美しいとまあこういった具合です。
「出会うことを恐れすぎてた」
この写真集を開いてまず思ったことはこうだった。
とても上手い写真があなたの目の前にあります。構図や光の入り具合、並ぶ順番も抜かりない。その作風は昨今のニーズにも合っているようです。
でもなんで?今の私にはまったく響いてこない。
そういう写真は、私の内奥にまで触れてくるものよりずっと多い。当たり前である。しかし焦ってはいけない。
写真とは波長が合うかどうか、これに尽きるのではないでしょうか。
波長が合うあの心地よさ。ああだから出会ってしまったのか。出会ってしまったから波長が合うのか。私は出会うことを恐れすぎていたのだ。
あなたがそこで写真を撮っていてくれてよかった。
YONA Megumi
私がいいなと思う写真は、あ、この人は写真でなければならないのだな、と感じられる写真です。
これは詩だったり、小説だったり絵画でも何でも言えるのだけれども、他でもない写真でなければならなかった!という写真家の撮る写真は、かなりくるものがある。それが稚拙であれ、未完成であれ、例え夭折であっても。
彼は写真を撮るしかない。
それはやがて鋭い直感、技術だったりに必ず導かれる。私のような物書きの端くれはそう信じてやまない。
YONA Megumi
取扱いジャンルの本はもちろん、専門書・古い本承っております。 出張・郵送買取もおこなっています。
お気軽にご連絡ください。 問い合わせ先 mail: [email protected] tel :047-705-0816
配送料 通常サイズ配送料 一回¥385(全国一律) 大型サイズ配送料 ¥550 (沖縄・離島は別料金)
注文方法/orderform International shipping
お支払方法 銀行・郵便振込み、PAYPAL(クレジットカード) 公費購入
適格請求書番号 T2810686166715