ああ、ディーン。
もうすぐ忘れてしまう気配がする。
はじめて私の中に「わたし」が介入してきた日のこと。
どうかな、私じゃない「わたし」が私に話しかけてきた。
今では「思考」とか「気持ち」とかで片付けているけれど、
あの日の私はまだ5歳とかで、とにかくびっくりした。
それで愕然とした。
一生「わたし」と生きていくのか、と。
「大人になるってそういうこと」
みたいな『退屈な知識人』の言葉に納得しそうになっていた。
大人になりたくないわけじゃない。
子どもに戻りたいわけでもない。
ただそうじゃないんだけどな、と思うだけだった。
走り去る車のなかで、さまざまな顔が通り過ぎる。
不潔でうるさくてヘンな男たちを面白がる人たち。
見向きもしない人たち。
嘘をつく老人、抱いた赤ん坊。
止まらないディーンを愛す、不幸な女たち。
名前のない親切な男の、手を差し伸べる褐色の肌の色。
そういうことではなかったはずだ、
ぐらぐらする場所に立って私はあの日よりもずっと確信が持てずにいる。
そんなガタガタの道を、ケルアックを載せたボロボロのハドソンが通り過ぎた。
それは本当に一瞬だったから、私が思うことも遅いくらいだった。
「結婚したいんだよ」ぼくは言った。「ゆったりと心を落ち着かせてその子と暮らし、なかよくじいさんばあさんになりたい。こういうことはいつまでもつづけられないだろ──こういうムチャクチャをしてあちこち飛び回るのは。どこかに辿り着いて、なにかを見つけなきゃいけないよな」
「ああ、そうかねえ」ディーンは言った。「何年も聞かされてきたよ、家庭とか結婚とか、心が落ち着くすばらしい暮らしとか。好きだよ、おまえのそういう話」悲しい夜だった。また、楽しい夜でもあった。
───オン・ザ・ロード ジャック・ケルアック 青山南訳
ください、と言われて顔を上げた。
はじめて見る人だった。
彼女は分厚い本をレジに持ってきた。
「私も読んだんです、これ」
え、と彼女はこっちを見た。
「面白かったですよ」
そうですか。あ、言わなきゃよかった、と私は後悔した。
沈黙。
「光っていたんです」
え、こんどは私が彼女を見た。
少し照れくさそうに彼女は言った。
「この本。そういうことってありますよね」
私はみるみる元気になる。
その通りだと思う。
それは、本当にそうだと思う。
オン・ザ・ロード
ジャック・ケルアック
青山南訳
2024年 河出文庫
ジャック・ケルアック
放浪天使の歌
スティーヴ・ターナー
室矢憲治訳
