
座った分だけ高くなる空 せきしろ*
「そら当たり前だ」とあなたは思うだろうか。
私には思えない。
鳥肌が立って「しまった」と思う。
やられた、と思う。
自由律俳句とは、と検索してWikipediaを見ると、膨大な時系列の最後にこの秀句が出てくるので、多分これが彼にとっての代表句、ということになるのだろうか。
抽象から生まれた緻密画が点に、印象派からまた抽象に移ろってゆくように、自由律俳句というものもきっと、しかしはっきりとした意図を持って、荻原井泉水から放哉へ、山頭火、住宅顕信たちの力もあって、定型からゆっくりと解放された。
そう思うと、写真やインターネットの出現によって追いやられた分、こちらにだってよいことはあるのかもしれない。
どちらが正しいというものではない。
どちらが優れていて、どちらが劣っているというものでもない。
でも自由律でしか動かせない心の動きというものが確かにある、と私は思う。

まだ夏なのかを確認して今日も満足
失敗して笑う感情は多岐
また会おうと嘘にしたくない嘘をつく
なんだかんだで面白かったと向こうも思っていたのなら
おもしろい、面白いとめくっていた顔が突然泣き顔になる。
私は確かにいま、言葉の確かさに救われているのだ。
みなさんもはじめてみませんか。
冬にぴったしです。自由律俳句。
ただし、俳句を詠むという心を忘れずに。
