
気がつくと答えのない「問い」が水面にたくさん浮かんでる。
足で蹴るとそれは、揺れてぶつかりあったりするだけ。
寄せてはかえす水を、ただそれを見ている。
それが人の一生だという。
電車の中で談笑する女子高生、眠そうな母親の指先に、散らばる設計図、酩酊する老夫がたてる、ビニール袋のかさこそという音。
いま、どれだけのひとがやりたくない一生をしているのだろう。
そこに立った時、その作品自体よりも、その作品が集く時間を私は愛しているのかもしれない。
この両手で閉じ込めたことによってはじめて許される永遠性を、私のどこかが泣きたいほど好きだという。
色は歴史だ、とは思いながらも扉の向こう、森の向こうの暗い中にあるかつての時間や人や暮らしを、生ある可能性を私は否定することができない。
殺すことがどうしてもできない。
可能性の海を見たとき、童心でぞっとし、それでいて旧友に会った心がにじむ。ああ私はここから来たんだ、と漠然とした確信をもって思う。小さい頃から感じていたこうした恐怖にこそ、私は生かされているのかもしれない。
そして書ける、と漠然として思う。
何を?私にいったい何が書けるだろうか。
寝室の向こう、見慣れた扉が開くとそこには男がある。
やあ、と肩を上げて言った。彼はいつだって楽観的なのだ。
「ずいぶんさがしたんだよ」
私が個人的体験を超えることは、きっとない。

韓江(ハン・ガン)は1970年に韓国の光州広域市で生まれた。

父も兄も小説家で、父の韓勝源(ハン・スウォン)の小説は日本語に翻訳されたものもあって読むことができる。韓国の李箱文学賞に親子で受賞したというのは、ちょっとした快挙だったらしい。
私にとって、韓国文学との出合いは彼女だった。
くさるな、死ぬなよと彼女の声が言う。
何かを見つけるということ。
それは見失わないと始まらない。

