どうしようもない男だという。
そういえば私はどうしようもない男のことばが好きだ。
尾崎放哉、尾形亀之助、カフカもどうしようもなかったのではなかったっけ。
自分に固有の、偶然性の余らせ方を肯定する。
──センスの哲学より 千葉雅也
『アメリカの鱒釣り』を書いたブローティガンも相当ぶっ飛んでると思うが、これを群衆が肯定したあるいはバッシングされたという事実は本当に面白いと思う。
意味の無意味。
私はいつもそのことについてため息をつく。
だからって意味が無意味なわけがない。
無意味の意味が欲しいわけじゃない。
ただそうじゃないんだけどな、と思うだけである。
夜、ハイウェイを走っているとこのまま死んでもいい、といつも思った。
もちろん死にたくない。こわい。そんなふうに死ぬなんて馬鹿馬鹿しいと思うのだが、生きるとは、ほとんどそういうことではないか。
この感覚はずっと前から私の中にあったけど、長いあいだ蔑ろにされてきた。
ほとんどの人はそれを忘れてさえいた。
採り出してみようなんて考えたこともなかった。
無駄だからだ。
あるとき私はそれを透かして覗いて見た。
ときどきわずかに光るのを知っていたから。
時間はどんどん過ぎた。
満足なひかりを得られないまま。
そんなわたしが、まだ文学をしたいだなんて。
泣きたいはずなのになぜか笑えてくる。
とってもさびしい。
この景色を、だから彼も見たことにする。
アメリカの鱒釣り
リチャード・ブローティガン
藤本和子訳
1975年 晶文社
