17時間目 人為の塔「五重塔」幸田露伴 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

 今まで体験したすべての幸福感を凌駕するほどの幸せを得られる瞬間など、この先、得ることは無い、と気づいた。よくよく考えてみたが、無い。期待は止すべきだ。

 

 あ、私は老いてきた。ろれつが回らない。車の運転が危なかしい。頭が動かない。塾の授業はできても、家のスプーンがさて、どこにしまってあったか……。何度聞いても、忘れる。忘れが、止まらない。何も覚えられない。「これ、例の奴だね」と笑いかけてくる妻に、悪い。「え、どの例……」

 

 コーヒーを飲む。

 午前の日課として久しい。豆を購入して、家で淹れている。ちょっと待った。なんだこの漢字は。淹れる、入れる、どう違うのか。

 ま、いい。

 とにかく、家で、コーヒーをいれて、飲む。豆も、道具も、揃えてある。はじめ、妻が凝り出して、それが私にも伝染した。

 

 抜けたように晴れた冬の午前。

 テレビの騒音を消し、南向きのカウンターキッチンで、やかんに火をかけ、ガリガリと豆を挽き始める。ミルを用いて、豆を粉砕する。一度でも体験した方にはお分かりいただけるか、この粉砕、一見地味だが、いや、なかなかの仕事である。

 なかなか、たるゆえん。左手でミルの本体を引っ掴みながら、右手でハンドルをも引っ掴んで、回していくうちに、左手の本体を中心と考えて回すべきか、はたまた右手のハンドルを中心と見なすべきか、わからなくなる気がしたら最後、力の入れ方がほんとうにわからなくなり、左?右?その狭間を往来しながら巻き巻きすることとなる。このゲシュタルト崩壊めいた葛藤のせいで、私がついつい睨むため、みぞおち辺りで持っていたミルが、目の位置にまでせり上がってきてしまう。すると今度は、こんなことでいちいち葛藤なんかする自分が嫌だ、という思考が浮かぶ。マジカルバナナ。バナナといったら、自己嫌悪。自己嫌悪といったら、現実逃避。現実逃避といったら、忘我。忘我といったら、無我の境地。

 無我の境地! ……と、私は、半ばはむきになって、半ばはその境地を目指し、ゆえに、決して休むことなく、ガリガリ、やる。のだが、ハンドルがやけに重いときがあったりして、粉砕の終わりがぜんぜん見えず、もしかして腕の筋肉が皮膚を突き破って出てくるんじゃないの、という子供じみた思いつきが、あり得なくもない想定のように思えてくる。怖いなあ。嫌だなあ。

 無我の境地といったら、……ごく平凡な生活にこそ。

 怯えてばかりではいられないので、私は、居間の机を見て、気をそらすことにする。朝食後、硬く絞った布巾でもって清浄し、消毒液まで噴射して、いま、世界一清潔な机。そんな机上には、茶色い光のデスクライトが、設置済みのカップ、そして、朝刊を照らす。さらに視点を窓外へと転じると、干し終えたばかりの洗濯物が見える。洗濯物が、幾分弱まってきたものの、この季節とはいえまだ火炎を思わせる力を残した陽光を受け、ピンと張っている。この仕事が終わったら、指で乾き具合を確かめてみることとしよう。

 

 私は、私が配置したすべてが、私を待ち受けていることを、知る。

 コーヒー豆はお湯がぶっかけられるのを待ち、カップは注がれるのを待ち、椅子は座られるのを待ち、新聞は読まれるのを待ち、スピーカーは電源入れられるのを待ち、空気は加湿されるのを待ち、机は汚されるのを待つ。

 

 うれしいじゃあねえか。

 

 私が動くことで、次から次へと仕掛けは作動し、ストン、ストン、と狙い通りに球が入っていく。人為が、完成していく。

 

 幸田露伴が著した、「五重塔」。人為の極致。至高の作りごと。

  老いた老いた、と抜かしてヒヨっている脳髄には、虚構の鉄槌を喰らわす必要がある。「五重塔」を読もう。カフェイン摂取のごとく、覚醒させるのだ。カビくさい幸福感など、たのしく粉砕していこう。