8時間目 洗濯する人生 「吊籠と月光と」牧野信一 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

洗濯物を、回すぞ。

 

 洗濯。これ、吾輩の日課であり、朝食前の、足腰の小運動、寝息の充満した室内気の撹拌、夢魔の退治。

吾輩は一家の長であり、また同時に、一家の洗濯大臣でもある。

洗濯、それは、拙宅の目覚めを表明する儀式である。

 

是非とも、回さねばならぬ。

 

 洗濯機の、その図体の現実的頼もしさときたら、不動の定位置、ランドリールーム、兼脱衣所、兼洗面所にて、洗面器を盾に、ずどーん、陣取ったその雄姿。拙宅のは、ドラム型には非ず、寸胴型。

液体洗剤の投入口へ、洗剤を流し入れる。江戸っ子の吾輩は、規定容量に比して、ほんの数ミリ、多めに入れる気づかいだ。

 洗剤が、果たして寸胴内部へ流れ込むか? 

目視、確認。これ、肝心。

 冗談ではない。わらってはいけない。

液体洗剤は、洗剤の分子同士が渋滞を起こしがち。

洗い終え、蓋を開けたら、洗剤は青色のまま投入口にとどまっていた、ぴえん。ということが、ある。

そうとなっては、水の中でくんずほぐれつしてから脱水しただけ。いわば、戻した乾燥ワカメをまた干すような醜行。肝心カナメの汚れの真髄、油脂等は化学分解されずに沁みついたまま。はい、やり直し。水と水道代金と時間とを下水処理場にぶん投げる、非生産的な失態。情けない。ぴえぬ。

 落ち着け、下水の処理場は何のためにある。処理施設にて、それらは浄化され、無害な形で自然に還るのだからまあいいじゃないか。……などと、アナタ、トンチをきかせるだろう、が。

言っておくが、それ、あまりにムシのいい話。吾輩の住む地域も、貴殿お住まいの地域も、きっと、下水道料金、として下水を浄化する手数料を水道代金の内訳として支払っているのだ。水をただ通過させても、その分、とられるのだ。お主ぬかったな。吾輩は、寝グセや流行を気にしない求道者、にはあらず。吾輩はしょせん、ファッションが気がかりな、並の生活者だ。「並の生活」とやらを、けっきょくは、求道、してやいませんか、というお問い合わせには一切応じておりません。

 

洗濯物を、干す。

 

さっさと干したい。グダグダしていると雑菌が繁殖するんじゃなかろうか。ならば、なるたけ、能率的に干したい、完膚なきまでに干し切りたい。

干し。ここからこそ吾輩、洗濯大臣の、大臣たるゆえん、腕の見せどころ。むんず。

濡れた衣類を乾燥せしむる天然空気を前に、「洗濯物を干したい」、吾輩の欲望など、くず。纏わりついたH2Оを気化すべく、コンロの火にくべる、というアイデアも、手っ取り早い方法かもしれないが、燃え移り滅ぶ危険性が大きく、しょせん人為は巡り巡って人間に毒である、という、好例ぞ。

かけまくもかしこきあまてらすおおみかみ、かとうけのおおかみたちのおおまえをおろがみたてまつりてかしこみかしこみもまをさくおおかみたちのひろきあつきみめぐみをかたじけなみたてまつりたかきたふときみをしへのまにまになおきただしきまごころもちてほしみのみちにたがふことなくおひもつわざにはげましめたまひてんをもちをもきよらかにはれさしめたまへ、晴天成就の呪文を唱え、カーテンを開けると、果たして雨であった。

 

こういう時は、慌てず騒がず、部屋干しへシフトチェンジ。

部屋干しは、しょせん、窮余の一策。死に体で、苦し紛れに一撃喰らわせた感。

ゆえに、ぜんぜん吾輩の高揚感出ない。先ほどまでの自然との不思議な一体感はとうに消え失せている。

が、そもそも吾輩のテンションが、洗濯物の乾燥如何にかかわるウソはない。テンション上げても、下げても、なぜだかわからん、衣は干されるのだ。涙は乾き、季節は巡るのだ。

吾輩は、敬愛する清掃マイスター認定講師のブログを見ながら、生乾き臭を防ぐべく、部屋のあちこち、縦横無尽に洗濯物を張り巡らし、扇風機の風を当てた。よし、腰に手を当て、大臣ホッと一息、ついた。

吾輩は吾輩を褒めたい、と初めてのように思った。そして、これが、じつに良い眺めなのであった。吾輩の創意工夫の跡がそこかしこに映じられていた。喫煙者であったら、ここらで一服、やる段である。

しげしげと眺めやるに、せめて天よ、曇りであったらなあ……と、割り切れない気分にも苛まれもする。

本来なら、靴下は1ハサミにつき1足セット、のところ、室内では空気に触れる面積の最大確保が肝要とあって、1ハサミにつき、片方ずつぶらさげているし、手ぬぐいなど3枚1セットにして、2ハサミでいきたいところ、が、これもまた、1枚ずつ2ハサミを使用している。手ぬぐいごときが? てやんでえ、とむかっ腹さえ立ってくる。

 

ふと、吾輩は、風にそよぐ吾輩のパンティーを手に取り、「これは昨日穿いていた。が、これが今日中に乾かないと明日穿いていくパンティーがないわよ」と気づく。折からの雨続きで、吾輩のパンティーは自転車操業が続いていた。明日晴れてくれればいいが。

 

 穿いて、洗って、乾かして。また穿いて、洗って、乾かして。そしてまた、か……

 

 なんと、これは、地獄ではないか。

 

 永遠に続く、生活の輪舞。

あるいは、骸骨のサウナ、か。あるいは、先祖代々強迫神経症、か。賽の河原で石を積んでも積んでも鬼に崩される、例のやつ、か。

 

吾輩が、人為と天為のはざまを往来しつつ、いくら手塩にかけて洗濯せしめたところで、汚れた衣類はタスクとして溜まっていく一方で。カラの洗濯籠を持って、ランドリールーム兼脱衣所に向かうと、すでに子供の汚したエプロンが放ってあった。洗濯したそばから、これだ。これが洗濯の、実態。

理不尽、と思わずにはいられない。

 

 そもそも、汚れるのがいけないか。生きていると、汚れるもの。細胞の遷移の末の老廃物が、剥がれ落ちる。生きていなければいい。ならば死ねばいい。ああ言えばこう言う。

 

 

 死。

 初めてはっきりと意識したのは、12歳の頃。夏の夕暮れ。家へ帰ろうと、自転車をこぎこぎ、近所の寺の入り口にさしかかったとき、面妖だなあ、お化けがでるってかあ、と、一辺倒な印象を抱きつつ、ふだんは避けていた墓地を、なぜと言うわけでもなく、なぜか、その日は、じっと眺めてみた。

 墓石の背後から突き出た卒塔婆が、風に揺られてカタカタと鳴っている。墓場らしい、何ら、いつもと変わらない、いつもの風景であった。

 しかし、そのとき、その「いつもと変わらない」を、私は初めて意識してしまった。

その景色は、私の記憶では何も変わらなかった。たしか前回見たのはおとといだった。またその前回は、そのまたすぐ前日だったはず。近所だから毎日のように通りかかり、目にするのだった。そして、おそるべきことに、5年前もたしか、ほぼこの景色、このまんま、一辺倒、ワンパターン、だったのだ。

私が笑ったり泣いたり怒ったり、体重が増え身長が伸び、もがき苦しんだりしている、つまり、成長していく、その過程を経ても、その墓の景色に、何ら違いは生まれなかった。火の玉でも出てくれた方が、まだマシだ。死者の居場所に、奇怪も奇跡もなにもないのだ。人は死んで、骨になって、ただの物質となって、そこからあとは永久に、何一つ、なさない。それが、死。そして、私もいずれその「いつもと変わらない」風景の一部となる。それは生まれた瞬間に、決定している。

 折角生まれたのに。

いずれ来る自分の死。人間のひとつの段取り、として漠然と想定してはいたが、このとき気づいた、「加藤亮太がワンパターンの風景に帰する具体的な予定」、これは信じがたく、あまりに理不尽に感じられた。

 心臓がわしづかみされたようで、どっと汗が出て、目の前は薄暗くなり、ペダルをこぐ力はへなへなと抜けていくのだった。

死ぬのだけは、いやだ、が、あの風景の一部になる日は、遅かれ早かれ、絶対に、来る、ということ。もうどうしようもない。

 そして、一家の集う夕げの場。

祖父母や母を前に、なかなか喉に通らなかったものだ。

この人たちは、死ぬ。順調にいけば、祖父母が先に死に、そして母が死に……

なぜ平気でいられるのか。死は、刻々と迫っているというのに。平気でご飯をよそったり、平気でテレビを観たり笑ったり、風呂をわかしたり、着替えたりできるのか。平気で、洗濯物を干すことができるのか。

 

 昭和11年、牧野信一は自死した。実家の納戸で、縊死した。39歳だった。

 牧野の文章は……西洋文学という餌を目前に、飢渇にのたうち回るモンスターの暴れを制御しようと、作者じみた人が、何とかそいつの背にまたがりながら、そいつの排出する文字を、どうにか拾いあげて読解し刻んでいく。じつはそのモンスターの正体、貧弱な駄馬なのだけど。作者じみた人は、気づいていないふりをして。こみ上げる喜悦にエビぞって。目ん玉血走らせて。……と、もはや何の説明をしているのか分からないが、それでも、そう言いたいほど、語のつらなり、文のつらなりは、ギリギリ狂う寸前、奇跡的に空回りせず、もんどりうっている。もんどりうちの、度合いは、作品による。(たとえば「吊籠と月光と」、もんどりうっている。また、本書収録外では「西瓜を喰ふ人」、もんどりうっている。)

 牧野はもんどりうった挙句、自ら死んだ。

 牧野は、いずれ来る死への恐怖に耐えられず、のたうちまわったのか。作品と自死とを結びつけると、そうかもしれない。

あるいは、(…いや、おれはこう思う)、牧野は、死、ではなく自分の生、こそが、理不尽だ、と思っていた、許せなかった、のではないか(?)。自分の今が、こんなわけがない、と、拒絶反応で、書いたのではないか。そうでなくして、あんなにまで、狂喜の叫びと大笑いで、獰猛なまでに生き生きと、もんどりうつことができようか……

 

洗濯物を眺めながら、吾輩は隣室の妻へ、

「洗濯をしたら、本を読みたくなってきたぞ。さあて、何を読もう!」

 と、気色ばんで、声をかけた。

 見ると、妻は、くるくると転げまわる息子(あたかもモンスターのように)を、あやしつなだめつ、おむつ替えをしているところだった。シートで拭きあげたその柔い尻には、赤赤と、あせも、が広がっており、痒いらしい、薬を塗ってやらねばならない。

 そして、キッチンの方から(といっても目と鼻の先だが)、電子ジャーが、ご飯の炊き終えたことを電子音楽で知らせていた。

どうりでこの一帯、面妖なにおいが漂っているわけだ。

 妻は、眼鏡をかけていないのにも関わらず、眼鏡のようなひらべったい瞳になって、あごで向こうをしめした。

 そこには、先ほど取り込んだ洗濯物が、山をなしてあった。

 洗濯大臣は、この、取り込んだ後の洗濯物をたたむのが、大の億劫で、時折逃げるのであった。が、このまま、逃げて、本棚へ向かってしまうと、「自分の好きなことばかり先行する夫、自分のことはすべて後回しして虐げられている妻」という対立構図ができあがり、妻が理不尽を感じてしまいかねない。

 生への激しい理不尽の怨念。

それはまさしく、牧野信一。妻だから、牧野信一子、となってしまう。

 妻が牧野信一子ちゃんになって、世を厭い、家を出ていかれては、いけない。

 吾輩の、毎日の大好きな洗濯物仕事は、自分だけの衣類ではとてつもなく張り合いのないものなる。それどころか、妻子に逃げられては、吾輩はひとりで生き地獄に落ちる。

すると、吾輩もまた、牧野信一になってしまう。吾輩は亮太だから、牧野信一太……

 

 ……ともかく、一刻も早く洗濯物をたたもう。どうやら吾輩は、ただ単に、「生活」が病みつきなのだろうから。