4時間目 口ぐせと言い訳 「戦災者の悲しみ」正宗白鳥 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

「地獄」「地獄のように」が口ぐせ、と妻に指摘された。

「地獄の忙しさ」と言ったり、納豆とキムチをまぜたものを「地獄のようにうまい」とあらわしたりして。

「地獄」の原義からは時折離れ、「顕著」という意味合いにおいても用いてしまうのは、おかしい。

それに、「地獄」だなんて、不吉を連想させる、たしかにいやな口ぐせだ。

 

 ある朝のことである。

私は、

「地獄、は、天国、に言い換えなさい」

 と、啓示を受けた。

 

 先日、新聞の人生相談で、老年の男より、

「私の一挙手一投足にいちいち注文を付ける妻。嫌気がさした。離婚すべきか」

との相談があった。

回答者の、これも老年の男が、

「その妻である人物は、あなたの神である。あなたが世間で恥をかかないよう、あなたが多少不機嫌になり怒りっぽくなっても、それを耐えてでも指摘し続けてくれている、稀有な存在。すなわち神である。それは彼女以外にはできないこと。他人にいちいち文句つけられたらそれこそあなた本気で怒るでしょう。妻であるその人をよくよく守護神とあがめよ」

などとあり、これは、なかなか、こたえた。痛烈であった。

 

 私にも妻は、「かみさん」であることは、これ疑いようもない。

妻の言うことを信じ、いざ「天国」に言い換えてみると……

「天国のような忙しさ」

これは実際そうだ、忙しいのは、ありがたいことにちがいない。

「天国のように美味い」

確かにそうそう、納豆とキムチのまぜたもの。あれは熱々のご飯にかけて、極楽浄土に至るほどのありがたい気分になれる。

単なる言い換えがここまで効力を発揮するとは思わなんだ。 

「天国だ、こんなに道が混むなんて」

「つまらなすぎて、もはや天国」

「この世は、天国だ」

 

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 テレビやラジオ、スマホ等から入ってくる情報に、私はいちいちケチをつけている。その対象は、政治、経済、芸能、スポーツ等、多岐にわたる。また、そういった、いわゆる世間一般のことにかかわらず、読書や観劇などの表現活動に触れて、私はその作者や周辺にケチをつけている。さらに、実生活における、ちょっとしたできごと、日常の小事件へも、あれやこれやとケチをつけている。昨日電車でこういう客がいた、だとか、そういった猫も食わない類だが。批評、といった高邁なものとは程遠い、自分のことは棚に上げる、どころか、それを餌に自らを正当化するのだ。ずるいなんてもんじゃない。標的が、手の届く相手じゃあないから、殴られる心配がないうちに「そういう者とはちがう自分」を高らかに宣言する。妻を聴き手に、「毒舌名人曰く」という、風情をやってのける、その気分は、じつに気味の好いもので、吐けば吐くほど止まらぬわが毒に、自ら酔い痴れて、いっしゅ、興奮状態に、至る。

これは、とくに朝。食卓についてから、膳を下げるまで、米粒とばして延々続く。

私からしてみれば、この儀式は、元気の証、元気の表出である。自己顕示の、爆発の朝である。だが、聴き手からは、「朝っぱらから文句ばかりで、たまったもんじゃない」と、たまにチクリ刺される。聴き手が肝心である。独り言するわけにもいかない。

最近、そんな私の様子を、息子が真似し始めた。

人差し指を立て、あちこちへ振りかざして、口をぐにゃぐにゃと動かし、しかし、やたらとまくしたてている。真似だから、デフォルメされているのもおかしい。

が、生来の、われわれの顔面が似ているのも手伝って、妙な気分に打たれた。

……私の内臓のある一面を取りだされて、それを自ら眺めているかっこうで、何か奇妙な感に打たれたのだ。

ぞっと身ぶるいしそうになるのをかき消したい。

で、ふざけてみる。私もその真似をしてみせる。

真似の真似をしてみた。

「おれは毒を吐いてばかりのモンスター、その名も『吐瀉』だ。ぺっぺっぺー」

 すると、彼は泣いてしまった。丸くした目から、粒粒の涙がこぼれる。

単にびっくりしたのだろうが、真似の真似をされて、腹が立ったのもあったかもしれない。それとも所詮私と同様、身ぶるいしたものだろか。

 

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 さて、前回の投稿の日付は七夕とあるから、今回まで4か月以上も間をあけてしまった。その原因は、私の生活にある。これは、怠惰なる生活、という意味ではない。

私の生活は、朝8時頃、息子の「マンマ」せがむ声を目覚ましに始まり、「モンスター・吐瀉」になって、午前中は息子と遊んで過ごす。室内で過ごすことも多かったが、最近は歩けるようになり、それでは狭く、物足りないらしい。だからだいたい近くのショッピングセンターへ散歩に行き、結局室内というわけだが、まあ、きょろきょろしながらうろつく。息子が寝てしまえば喫茶店に入れる。そして、パートあがりの妻と落ち合って、バトンタッチ、息子は渡し、単身仕事場へと向かう。そこは、最寄の金町駅から歩いて20分強という、僻地だが、もう慣れたし、道も、行きつけの喫茶店やパン屋、通りかかる家々の様子の移り変わり、などがあって、たのしく通っている。14時オープンし、雑務、経理、宣伝、授業準備等、やることは多岐にわたる。夕方からは、メインの仕事、授業。奇跡のようだが、開業後1年弱、生徒たちが定着した。これを終え、22時頃、教室を閉めたら、帰りは駅まで走る。約2キロ。ストレス発散にもなり、肉体の鍛錬というほどでもないが、健康に良かろう。人の気配まばらな行路、時間であるのをいいことに、音量を大きめにして、イヤホンからはローリングストーンズ、である。嗚呼、ローリングストーンズ。どうだ、まいったか。じつに素晴らしいではないか。素晴らしいでしょう? このバンドの中期と呼べばいいのか、60年代後半から70年代前半のあたりのアルバムを聴いて帰ると、「なにはともあれ、今日もいい一日だったぜ」という気分に浸ることができる。それこそ「天国」である。ずっと浸っていたい気分だ。ストーンズのファンって、革ジャン着てサングラスかけたオッサンだろう、というイメージがあるだろうが、私のようにジャージ姿もいる。どちらもオッサンには変わりないか。そこへ来て、ヴェルヴェットアンダーグラウンド? このバンドのは、こうはいかない。だいいち、彼らの名称からして、一筋縄ではいかぬ。そうはいかない宿命を背負ったバンドだ。先日は「シスターレイ」という長い曲。これは、脚力は出たが、帰宅後、着ていたものを洗濯機に暴力的に放り込みながら、高い度数のアルコールに重い煙草に危ないクス〇が必要な気がしてき、そんなものは拙宅には見当たらず、結局、ざんねんな気分になって、いつもはひとつで済ましているヨーグルトを、なんと二つも食べてしまった。これで残りゼロとなった。選曲次第でわが家のヨーグルトの減りが変わるのなら、あれはランニングには向いていないらしい。これはまさしく「地獄」の音楽ではないか。遅い夕飯を食べ終え、風呂からあがれば、地獄だろうが天国だろうが、布団にはいるのは1時頃となる。

これが私の生活である。

 

言い訳がましいが、息子がかわいくて、仕事がたのしくて、読み、書く時間がなかったのである。

 

地獄のような日々、時間がなかった……

 

と言うと、かみさんに叱られる。

是非とも読み換えていただければと思う。

 

そりゃあ、そうだ。恋女房と愛息とに見送られ、自分の念願だった塾をやって、生徒も来ている。ウソのような話だ。奇跡のようだ。これを「地獄」と? 甚だおかしい。大間違いに間違っている。

……そんなことは、はなから、わかっている。

しかし、どうも、「地獄」と口が動く。毒づく。「天国」と、自分の生活を表するのは、どうも恥ずかしいものじゃないか。

 

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正宗白鳥の、彼の後期にあたる作品、私小説「戦災者の悲しみ」。

そこには、私の「地獄」ではないが、作中「私」が、折に触れて、嘆じる、とある口ぐせが、まあ、ひとつ、あり、作中「私」の声の、憧憬する声と、嘆じる声、というか、愚痴る声、それら声と声とが、器用には扱い分けられないゆえに、現実的な問題に際して、やけに超然としてい、それがはた目におかしく、いや、かなり状況はきびしいのだろうが、やはり、おかしい。簡便には言えぬ。ラストは、断絶するが、あれは余白だ。作者の生身の含羞のような空気感に触れて、さらにさらに、簡便に言えぬ。

無理くり、私の生活と作中の主人公の生活とを結びつけて、きびしい状況においても理想を求めるゆえに、虚勢を張った言葉が、切実にある、という締め方をしようとしたが、そんなことはもういい。

本作は、短くも、私が小説に求めるすべてが炸裂する。輝ける、忘れがたき、傑作。ローリングストーンズもヴェルヴェットアンダーグラウンドもそうだが、地獄に落ちても、そこで独りそらんじて、再現せしめればせめて60パーセントくらいは、また興奮を味わえる。だから、死ぬまでに一度、通っておいてよかった、と思えるほど、大切な作品である。

よかったら、死ぬまでに一度お読みください。