本棚を見ていて何となく手に取って、これを開いた私は仰天した。
「はっきり言って、いま死んでます。」
そこから始まる絵本は、もしかしたら他にもあるかもしれない。
でもそのあとで
「てか、踊ってます。」
と続く絵本は他にないんじゃないか、と思う。
私が4歳くらいの時に家に来たミニチュア・ダックスフンドのパルは、やんちゃで人懐っこくて、雷が大きらいで時にはうるさい、どうしたってかわいい家族の一員だった。
そんなパルに私たちは嬉しそうに文句を言って、一緒に走って転んで笑っていたような気がする。
パルはヘルニアを3回くらいやって、気づくと黒くて大きな目を白く濁らせて、トイレを何度も失敗して、寝てる日ばかりが多くなった。
久しぶりに実家に帰ったとき、パルは私のことを面倒くさそうに見上げて、長い胴を擦り寄せて撫でさせてくれた。そのやわらかさを、あたたかさを私は覚えている。
たぶんそのときパルは、私のことを思い出せなかったと思う。
それぐらいの時間が経ってしまっていた。
次に会ったとき、パルはこんな小さな骨壷になっていた。
それがもう5年も前になる。
この悲しみは、パルが居なくなってしまった喪失感ではなく、彼の一生を知っていることについての痛みなのだ。
人は、その痛みをどこか抽斗の奥にしまってあることで、忘れることで生きていけるのだ。
でも決して消えるわけじゃない。
ここの文章を考えていて「これだ!」と思ったとき電話が鳴った。
店長のキタザワさんである。
要件はさっき電話した内容の折り返しだった。
返事をして電話を切ると、「これだ!」の全部がきれいさっぱりいなくなってしまっていた。
まるで、陽だまりの窓辺に居た猫が消えてしまったみたいに。
チャーちゃん
保坂和志 小沢さかえ
2015年
福音館書店
