──つまり、自分のことを少しばかり忘れてしまうようになります。
-ルイジ・ギッリ
その写真を見たとき、私はことばを追いかけていた。
必死に追いかけて、例えば詩にしていた。
こんなことをして一体何になるんだろうか。
でも私はやめることができない。
──ドライブから帰ってきて、気に入った場所が見つかったときには、こんなふうに言いながら車から降りてくる。「すごくいい写真が撮れたぞ!」「何の写真?」「え? 覚えてないさ、見てみないと」······
はじめて見たときから、ギッリの写真が好きだった。
でもどうして好きなのかはちっとも分からなかった。
その彼の写真たらしめているものは、一体何だろうか。
──どの人も最初の数枚を見ると、パタンとファイルを閉じた。通訳をした友人オリーヴォ・バルビエーリは、ギッリの辛抱強さについていけなかった。ギッリはぼそりとつぶやく。「二十年後にはきっと分かるさ」。
写真は、不透明である被写体を透明なレンズやフィルムを通して撮っている。
私たちや、そこにある現象は不透明だ。
本当だ。
透明というものは蝶が光を渇望するみたいに、するすると易しい安らぎのように思える。
響きも美しいし。
あ、分かりましたマエストロ。
写真ってそういうことなんですね?
おしい、とギッリは言った。
手段としての透明さを撮るのではなく、不透明をこうむって、ある種の透明さを取り払うために写真を撮ろうではないか、と。
あ!分かった瞬間にわからなくなる私。
彼は決して豪奢な道具は使わなかった。
彼は真実への橋を、見ることができると信じた人にのみ顕われるその『敷居』を、誰よりも信じていた。
彼は知っていたのだ。
写真を撮るとは、その写真の外、場所や時間や匂いなんかを消去すること。
何を撮るかではなく、何を撮らないかということ。
じゃあ削ぎ落とした先にあるものって?
ギッリは言った。
微笑んでいた気がした。
それはすでに私たちの前に立ち顕れているではないか
──一九八八年の文章で、ギッリはこう書いている。写真を撮ることは、つねに既知と未知の狭間にいることを知ることだ。
(中略)
彼の写真は、世界が形を成すのは、だれかがそれを見ているからということを教えてくれる。だれかがそれを眺めたいと感じるときに、世界ははじめて形を成す。
-ルイジの想い出 写真と友情 ジャンニ・チェラーティ
ギッリのそれはちっとも新しくはない。
しかし私たちは驚く。
そしてまた書き留める。
まるで写真を撮るみたいに。
こうして詩を書くことを、私はやめることができないのだ。
