18時間目 「プールサイド小景」庄野潤三 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

 原因、あるいは、理由。そして、結果、という言葉がある。

 結果となる事象の前に、原因となる事象があり、それらが密接に関係すると、因果関係という。原因があるから、然るべき結果がある……

 逆にすると、どんな結果にも、背後には原因がある、……そういうこと?

 

 ややこしい。もう流そう。考えるのは、止す。

 

 ところで、箸の持ち方が変な大人がいる。

 小学生時分の私は、見てしまった。テレビでは芸能人の結婚式の生放送をやっていて、会食する場面があった。そこでの桑野信義氏、通称、桑マンの、あれには驚いた。見てはいけないものを見た。それほどの衝撃を覚えたものだった。いい歳こいた大人が、あんなのでは、どうだろうか。子供の頃、直さなかったのだろう。ならば、仕方ないのかもしれないが。

 

 そして、私です。

 私は、物をこぼさないことで有名だ。もしご存じなかったのなら、これを機に覚えてくだされば、よい。

 しかし私は、こうした助言も、よくされる。

「今にもこぼしそうなその皿の置き方は、如何なものか」と。

 例えば、テーブルの縁ぎりぎりにスープ皿を置いたり、コーヒーカップをソーサーに30度傾斜をつけて置いたりする。

 もちろん、わざとやっているのではなく、無意識のうちにそうする。子供の頃からそう。そりゃあ、こういう変な技、というのは、大人になってから好んでやり始めることではない。そして悪いことに、私と来たら、こぼさないのだ。一向に失敗体験には及ばない。だから、反省しようがない。だから、直そうともしない。縁に置いたことを激しく難詰される、という経験もないので、恐怖による矯正もない。そのまま、このように、いい大人になってしまった。

 どうやら私のその仕草は、桑マン同様、傍から見て、心地よいものではないらしい。

 

 いい歳こいた大人が行う、酷い行為は、他にもいろいろある。ここに記したくないほどむごいことは、世には日常的に起きている。心地の悪いものである。

 陰惨な事件。冷血な事件。凶悪な事件。

 

 なんでそんなことをしたのか?

 

 そんな問いを抱えて、報道に触れる。

記事では、事件に至った経緯、当事者の、ひととなり、などが報じられる。

が、到底合点のいくような答えを得られたことはない。情報量が不足している可能性はあるが、きっと、ありったけの情報を得たとしても、事件を納得するには至り得ない、そんな気がする。

 とにかく、決定的な原因・理由にたどり着かないまま、私たちは、次のニュースを聞いていく。それぞれの事件には、どれにも解析され暴き出された原因があったとしても、それをいくら並べたところで、納得の不可能性が、私たちの理解の侵入を拒む。拒まれ続けて、大丈夫でいる。

 

 今朝、凶行があった。おそろしいことだ。

「どうせ不幸だったんだろう」

 犯人は、こんな生い立ちだった。

「やっぱりな。そうだと思った。やりがちだな。まあいいよ。はい、次」

 次のニュースです。動物園のパンダが……

 

……

 

 私は、どぎつい事件の続発には、馴れ、事件原因の納得不可能性には、倦み、このような具合で、片付けて過ごしている。

 

 ややこしい。もう流そう。考えるのは、止す。

 

……

 

「プールサイド小景」。

 物語の設定として、まず、とある事件がある。「事件」といっても、殺人や虐待のような、娯楽作品にありがちな強烈な設定はない。カラフルな激情もない。

 会社の金を横領した夫の失職、である。ふわっとした、しかし穏やかではない話だ。

 育ち盛りの男2子を抱えた家庭は、もはや、崩壊秒読みの段階にある。

 夫は40歳、再就職先を探して社会的に復帰するのはかなりの難事と思われる。(昭和29年発表の作品)

 そんな崩れのさなか、理性的で、しかもおしゃれな妻は、夫が手を染めた犯行を探る。この妻が、おしゃれなのが本当に重要だ。もし映像化の話があって、私が監督をやっていいのなら、妻は、西田尚美か坂井真紀がいいと思います。菅野美穂もいいと思う。そういった、小洒落ていて、信用に足る、といった印象の女性。堕落の似合わない、感情のよく抑制され、凛とした好人物。

 それが、妻。

 その妻が、家事の合間を使って、「なぜ?」を掴もうとする。善良だったはずの夫は、一体どうして間違いを犯したのか。合点のいく理由を得て、納得しようと、探索する。

 好人物の妻の目は、信頼感の高いものだ。難詰することはしない。日向ぼっこのベンチで、夫が気楽に話されるような配慮をして、優しい尋問は始まる。読者の私は、その信頼に足る目を借りて、一緒に探索していくこととなる。

 そして、導き出された原因とは……?

 ぜひともそこは読んでいただきたいが、それを受け、妻はこう感懐する。

 

「いったい自分たち夫婦は、十五年も一緒の家に暮らしていて、その間に何を話し合っていたのだろうか?」

 

 この問いは、逆説的に「話し合うべきことを全く話し合ってこなかった」と言っているようだが、ではさて、夫婦は、何を話すべきなのか。本当に話し合わなければならないこととは、何なのか。私たちはいつも何を話しているのか。

 

 ややこしい。もう流そう。考えるのは、止す。

 

 夫婦であり、父であり、塾経営者であり、などといった肩書を増やしている陰で、この呟きを繰り返してきてしまったのではないか。残酷なニュースを読み散らかすように、夫婦の会話も、孤独なもの思いも、それらはかけがえのなく、生きるためには必要なのに。情報の洪水という名の自殺的な思考停止に、自ら吞まれに行ってしまっているのではないか。

 

「プールサイド小景」に戻る。

 物語はこれでは終わらない。

 最後に、夫は、とある仕草をする。

 一見、大したことではない。それはまるで、灰色の日常をささやかに彩る、得がたい小景のようでもあり、理想的な境地のようでもある。同時に、世にも奇妙なものを見せているような、不気味さも漂っている。

 

 結果の背後には、原因・理由がびっしり詰まっている?

 とある行為の原因を探れば、あれも、これもと、無数に思い当たる。

 まるで磁石に集まる砂鉄のように、原因たちは集まって来る。しかし、そのどれもが、砂鉄のように、手の指の隙間から流れ落ちていって、手ごたえがない。

 

 そもそも、原因や理由、これらの言葉は、人の行為を説明するために、適切なのだろうか。

 なんで? どうしてそうなった? この思考は、後ろ向きのベクトルに終始する。

 幼稚園の頃からだ。

「なんで噛みついたりしたの」「だって、おもちゃ欲しかったから」「それなら、そう言えばいいでしょう」「うん。でも、言っても聞かなかったから」

……これはただの思考訓練だ。社会性を持つため、つまり、共同社会の一員として無難に生きていくための、教育、訓練に過ぎない。「理由」や「原因」という教育的な言葉をもって、人間を説明しきる、そんなわけがない。

 結果に向かう、前向きのベクトルのためには、では、何という言葉が正しいのだろうか。

「やっぱり『原因、理由』でいいんじゃないの」とも思う。

 だが、「原因は」「理由は」と言葉に出した時点で、もう思考のベクトルは後ろ向きに固定化している。

 いわれ。根拠。仔細。経緯。顛末。沿革。事情。……似たり寄ったりの言葉を、並べてみても、どれもちがう。ぜんぶ背後ばかりを探索する態度が含まれているように読める。

 

「なんでそんな持ち方をするの」と「原因・理由」を問うて、桑マンから回答を得ても、私たちの的を射る答えは得られまい。

 

 

 ぜひ、過去からの前向きのベクトルを。

 

「何が彼をそうさせるのか」

 

 この方向で見ていくしか、腑に落ちないはずだ。

 やはり、これは物語にしかできない思考方法らしい。私が探していた前向きの言葉、それは「物語」でしょうか。

 

「プールサイド小景」という、物語。この物語は、途方もないくらいに悲しい。私は、ふと、悲しむために生まれたと、思う。そして、この作品に出会って、その感を強くした。悲しみにまみれたベクトルは、あらゆる流れに逆らって、前を向く。