15時間目 天気予報アプリ 「こおろぎ」尾崎一雄 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

悪い予感が的中する、という言いまわしをするが、

悪い予感にとらわれている間は、

「私は憂鬱で不幸」という時だったかもしれない。が、

その予感が的中した瞬間、ある種の興奮を覚えたかもしれない。

その興奮は、私に幸福をも、もたらしたかもしれない。

 

 私はまだ祖父の死から逃れられていない。

それどころか、日に日に、祖父の死の色は濃くなるばかりである。

ポタミアポタミアしている。(メソメソの誤り)

 

 

 これは極めて平凡なことかもしれないので、私は極めてつまらない話をしているようだが……

 

 祖父の死、その3年ほど前から、私は「そろそろだろう」と思っていた。

身内の死に不馴れなくせに、私は祖父の死を予感した気になり、会うたび毎に、

「思ったより、その時は早くおとずれそうだ」だとか、

「今日の元気な様子では、まだ大丈夫だな」だとか、そんなことをやっていた。

いよいよ悪趣味だが、如何せん、それが私の日常的な思考なのだ。

その思考は、私の持っている予感を、現実とすり合わせし、修正する作業だった。

私のその予感は、予想と表現してもいい。

「祖父は、×年×月頃、死ぬだろう」

予想の確度をあげていく、そうした予想屋的作業を私は怠らなかった。

 

 スマホのない時代は、夜、テレビの天気予報を気にしたものだった。

ところが、スマホを持ってからは、いつでも天気予報を知ることができるようになった。

テレビの予報のコーナーは、視聴者にとって、おせっかいを受け流す時間でしかない、ということが多くなった。

そこで、私は気づいてしまった。

私が使っている天気予報アプリはヤフーのものだが、その「予報」たるや、刻一刻と変わるのだ。

夜の時点では、「明日は晴れ」、とあったくせに、翌朝、「今日は曇り時々晴れ」と出て、

空を見れば確かに曇っている。

「なんだ……」と私はがっかりするのだが、いや、それくらいの変更はテレビ時代でもあったこと。が、

問題はここからである。

遠くの空に暗雲が近づくのを見て、天気予報を見ると「これから大雨」と出る。

私は、

「こんなのは『予報』ではない。

空を見れば誰にでもわかる。謝らなくてもいいが、

せめて訂正前はこうだったのだが、と併せて伝えてもらわば気が済まない」

と、文句を言って、雨に打たれている。

 

 でも、じつは、もともと天気予報というのは刻一刻と変わるものなのかもしれない。

テレビ時代は、時たま、その瞬間に遭遇していただけなのに、

その都度、勝手に「天気予報とは固定的なものだ」と勘違いしていたが、

スマホ時代となっては、こちらの好きな時間に知り得るようになり、

「これ」と決まることがない流動性に気づいた、ということ、と解したほうが物分かりが良いようだ。

 

ともあれ、「予報」と言われ続けるから私は鼻持ちならない。

私は天気予報に、ギャンブル性を見ていたようだ。

イチかバチかで、えいやっと洗濯物を干す、あの覚悟は、天気予報士を見込んだ末の勝負だった。

予報士方に憤怒を招く表現であることを承知の上で言ってしまうと、

いち生活者の身にしてみれば、彼らを「予想屋」に見立てることもできる。

賭け事で当たりを、予想代行する、あの予想屋に。

スマホの「予報」は、現状とのすり合わせによる修正作業の結果であり、

これはれっきとしたズルだ。

馬券発売はとうに締め切られている出走後の様子を見ながら、机の下でベットしているような、イカサマ行為。

 

そんな悪口が言いたくなり、言っている。

 

 

 祖父の死の、その時に近づくと、私の予想は、幾重にも修正が必要だった。

脚が立たなくなり入院した、と聞いたときも、

「入院となっては、寝たきり状態になる。それはいけない」とは思いはしたが、

「だが、あの調子なら、まだ大丈夫だろう」という感想だった。

が、それは即、修正が必要なもので、すぐ破棄されねばならなかった。

 

入院後約1週間の経緯はこうだった。

 

脚は骨折しているので、手術が必要だ。

→しらべると肺炎らしい。骨折はさておき、まずは肺炎を治す。

→新型コロナの可能性がある。

→検査の結果はコロナ陰性だった。

→しかし肺炎の症状は重い。

→自発的な呼吸が見られない。

→危篤。

 

1週間程度で、祖父は遺体となった。

現実とのすり合わせ作業に余念がない私は、急転する現状に、

どうにかこちらの予想をすり合わせようと躍起になった。

ふいに暗雲が近づいた途端、

太陽マークを大雨マークにすげ替えて「予報」を気取るように、

結末、私は「もう難しいようだね」などと言って、祖父の死に、ギリギリ間に合わせた。

私の「悪い予感」を。

たった1週間前、「まだ大丈夫」と言っていたのだから、えらい変わりようである。

我ながら、これは節度がないのではないか。

でも、曲がりなりにも間に合わせることができたのも、また、事実だ。

 

気象とはどうやら刻一刻と変化するものらしいから、

「予報」がそれに照応して方策を施し、結果、流動的なものになるのは、当たり前のことであるから。

 

人はこうやって、何かを予感し、予想材料とのすり合わせ作業をとめどなく繰り返し、

100%的中の現実に納得し、また何かを予感し始めるのかもしれない。

「予感、すり合わせ、的中、納得……」

どうやらその連続の人生だ。納得するから、今ここで生きていても、取り乱さないでいられる。

おとなしく、たとえば目薬を点眼することだって、危なげなく、できる。

こんなコロナ禍においてさえも。

それを繰り返す果てに、私の死へとつながっているように思う。

私の死の直前、私は

「やっぱり予想した通りだ。ほらね、もうおれは死ぬんだよ」

と、「納得」するのだろうか。そこにおいてもやはり、「的中」の恍惚は伴うのだろうか。

愉悦か苦笑いか、どちらにせよ、私は枕で微笑んでいる気はする。

 

 尾崎一雄の「こおろぎ」は、病気の瀕死から危うく逃れた主人公の、

妻や子供たちとの、愛らしい交流が描かれている。

生還者である主人公は、子供たちの未来を「見届けたい」と願っている。

また、こおろぎが鳴くだろう「もう二三週間」程度の未来を、予感している。

それらは生の実感のみなぎりと、手離したくない生命というものを感じさせる。

 悪い予感と良い予感が入れ替わり、立ち現れるつつも、

しかし、それでも、良い予感のほうへと漕ぎ出そうとしているのが、尾崎一雄の小説だと思う。

ゆえに、浮力を持つ。

 

 良い予感であれ、悪い予感であれ、

「予感、すり合わせ、的中、納得」を数珠つなぎにできる程度の予想屋人生ならば、

それはそれで幸せな方なのかもしれないが、果たして人は無に向かってしか進んで行けない、

ということに一抹の寂しさを、私は覚える。

そんなのでいいのか? と