1時間目 暴力的なほど透明に 久芳真純「優しくあることを許して」展 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

 

大学の校舎のエントランスで、私は二度、その現場に立ち会ったことがある。

 

「ガシャン」という大きな音。見ると学生がガラス戸の眼前で突っ立っている。彼は私の知人だ。足元にはガラスの破片が散らばっている。つまり、いま彼はガラス戸を破壊したのだ。授業の狭間のせわしい時間ゆえ、案外注目を集めない彼の、しかしその目は泳いでいる。つと歩み出た中年の常駐警備員。あいつ逃げる気配もないらしいが、おかしいことにすでに腕を掴まれている。

 

 わざとではなく、不覚にもガラス戸を蹴り破ったということだった。少し切ったらしく、罪のない彼のおでこには絆創膏が貼られていた。

 

 ガラス戸は、戸にガラスをはめた、そのデザインの主な目的として、内部と外部とを隔てる、その仕切りの透明化ということがあろうか。外光を取り入れつつ、戸の第一の役目をも獲得する。研究に励む内の人々の閉塞感を低減するには、ガラス部分の透明度が高いことが肝要。清掃員はきっと、我々学生たちのことを思って丹念にガラスを拭いてくれたのだろう。その懇ろな思いが、ついに空気と同化するほど透明なガラス戸を現出せしめ、知人の半身を喰った、というわけか。拭き上げた職人技を、お見事、と言っても、その、あるはずのガラスが、見えぬ。

 

 この現象を私は二度見た。

 

 10年以上前の、のんびりした話のようだが、このとき彼が味わったであろう狼狽はいかばかりか、推し量ってはふいと身震いしたものだった。

 

 しばらくぶりに、その身震いと同種のおののきを感じたのが、このたび観た、久芳真純の作品だった。

 

 タイトルにある人の「優し」さとは、磨きまくったガラス同様、目に見えないものである。そして、「優しくある」はずの人の仕草は、行為者の思惑を超えて、ときに他者をがぶり喰う、のかもしれない。いつのまにか当たり前になしている私の日常生活の仕草は、中空に額縁を当てはめる虚構(演劇的手法)によって、解体され再構築されることで、上滑りし続ける誰かの不器用なポーズとして、示し出されている。

 

5月24日まで gallery 112(あかぎハイツ)

 

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