19時間目 「姫鏡台」上林暁 午後3時のカトウ塾 加藤亮太

 塾を閉め、自宅アパートに帰宅するのは、11時頃。

 こんな時間では、3歳息子は寝ている。0歳娘も寝ているだろう。

 だから、音を立てないよう、扉を開け、そうっと闖入する。

 

 

 イヤホンで音楽を聴きながら歩いて来ることが多い。たとえば、ドアーズ。

 いや、ドアーズほど他の音楽と混ざらない音楽はないのではないでしょうか。

 

 

 シャッフルして、ランダム選曲で聴いていることが、まま、ある。

 最前まで、まあロックやテクノなんかを聴いて、没入感とドライブ感とで恍惚となっていたりしたところ、ふいに、「ライトマイファイア」、なんて、かかったりする。興醒めである。「邪魔をしないで」と、飛ばしてしまうことが、よくある。

 かたや、ランダム選曲なんていう軽率な聴き方はやめて、アルバムの始めから聴いてみると、「もう死ぬまでドアーズ以外の音楽を聴く必要はない」とまで思わせてくれる。

 他を排するほどに激しい個性。それがドアーズ。

 

 そんな激渋のドアーズで、幸運にも手に入れた高揚感たるや、それは、稀有な黄金だ。

 

 

 ところで、玄関で我が鼻先に突きつけられるのは、そんな音楽の高揚感を吹き飛ばす、情け容赦ない、現実味である。

 

 そうだった。そのことを忘れて、帰路のつかの間、うっとりしていた。音楽の魔力にうかされていた。恍惚の余韻などたちまちかき消されてしまうというのに。

 

 どうにかこうにか、死線ぎりぎりの賃料払って得ているんだ、ここぞ暮らしの関門。玄関は、現実味第一関門。略して、現関なんだ。うまいこと言った。却下。伝わりづらいから、やっぱり、玄関。開け放たれたのは、玄関のドアーであってドアーズではなかった。

 家庭という血縁共同生活体の、逃れようもない現実味が、ついうっかりうっとりうかれた男に、お構いなしに、襲い来る。

 よく遊んだらしい、息子の蒸れた靴のにおい。娘のオムツ近辺のにおい。われわれ大人たちの汗や体臭。それらを洗い流そうとした、石鹸、シャンプー、洗剤、入浴剤のにおいも混在。また、これは、キッチンか、冷蔵庫か、あるいはゴミ箱からか、ぷうんと漂うのは、大根の青臭、魚の生臭。

 じつに現実味溢れる雑多なにおいが、うっかりうっとりうかれた私を、たちまち引き戻す。一職業人、あるいは、一芸術家気取りだったかもしれない私を、一家庭人に、引き戻す。一世帯の一主に、引き戻す。

 耳に詰めたイヤホンは、ただの耳栓と堕した。音楽などは、泣く子も黙る現実味を前に、ただただ無力。

 

 最近、騒音問題でピリついた隣人との関係鎮静化を図るべく(なんて現実味のある理由なんだ……)、テレビの位置を茶の間から、奥の居間の壁際へ移転、さらにテーブルやちゃぶ台もいっしょに移転した、ということもあり、本来の茶の間には、荷物が少ない。

 誰もいないかしら、とおぼろに思いつつ、つつつとニセ茶の間を抜け、居間に入っていくと、果たしてそこには寝ているはずの妻が座っていた。ぎょ。

「おかえり」

「た、だいま」

 

 以上、ここまでが私の帰宅ルーティンである。

 思いがけず妻がいて、びっくりする、までも含めて、習慣づけられたものである。動画で公開してもいい。

 

 妻が座っている腕には、最近は、半分の確率で娘がいる。まだ未熟だから、10時頃、一旦起きてしまうのである。

 娘は、私をみとめると、深夜のハイテンションで「アンティグア、バーブーダ」などと私にはわからない言葉を喚いてくる。ここで完膚なきまでに、現実味は深まる、というわけ。

 引き戻される、という胸倉掴むような大仰な動きせずとも、私がとりつかれていた非現実的浮遊感は、脱ぎ捨てた上着とともに、ハンガーに引っかけられ、吊り下げられて、一旦、仕留められてあるのだから、こうとなっては、私は、完全にこの家の父親。ちーん。出来上がり。

 飯をむさぼりながら、妻とはその日あった出来事を報告し合い、風呂入って、出て、水飲んで、軟膏塗って、寝る。

 

 ・・・

 

 しかし、時にはこのルーティンが崩れることも、ある。

 

 仕事が終わるのが普段より遅くなると、

「遅くなる。もう完全に寝てしまってけっこう。けっこう毛だらけ猫灰だらけお尻の周りは糞だらけ。」

 などと妻にラインで連絡して、11時半などに帰着する。

 案の定、現実味第一関門を通って後、居間に妻の姿はない。

 イヤホンで狂気じみたジムモリスンが淡々と「カモンベイビー」と連呼し続けるのを聴くともなしに流しっぱなし、耳から引き抜くタイミングを失ったまま、上着をかけて、手洗って、冷蔵庫から夕食を出してレン・チンして、椅子に腰かける。

 テレビをつけたから、ようやくと気付いてイヤホン抜いたにしても、私は音楽の余韻をひきずったまま、中途半端な浮遊感のなか。

 食事を済ませ、テレビの前で、ドカ食いした後の満腹感が落ち着くのを、ぼうっと待つ。

 時折、ちらりと、寝室を見やるが、妻が起きてくる気配はない。今日も話すネタがあったような、なかったような。

 

 ま、やはり、完全に寝たらしい。

 

 ・・・

 

 風呂から上がる。

 妻と話したいことがあった気がするし、聞きたいこともあった気がする。

 だからこそ明日話すためにも、さっさと寝るか、となればいい……。

 とは、ならない。

 

 ここで、魔が差す。

 ついつい、スマホ、に手が伸びる。

 

 ついつい、お気に入りのユーチューブチャンネルの更新をチェックしてしまう。

 よし、ほんの一個だけ。

 あ、この人も更新してた。

 あの、じゃあ、ほんとに、あと1個だけですからね。

 おやおや、右のバーのところにおすすめの動画が出てくるのだが、意義深そうなのだが、これ次に見てもいいですか。

 いや、駄目です。こら、駄目だって言うのに。

 え、すみません、なんかもう再生してます。指を置いただけで勝手に動くんですけど。

 

 ・・・

 

 もう止まらない。ドライブ感が駆った。

 自分でもわかっている。わかっちゃいるけど、やめられない。

 

 これまで吾輩は、若干のユーチューバー、ユーチューブチャンネルに耽溺してきた。

 

 たとえば、懐かしい「マネーの虎」の、ユーチューブ版があった。あれには、耽り過ぎて、まったく自制効かず、深夜0時頃見始めて、外で小鳥の声がするのでふと時計に目をやると5時、という凶暴なまでの中毒性におかされたものだった。

 怖くなってチャンネル解除して、関連動画で出てきたら、「興味がない」というボタンを押して、出るな好きだ出るな好きだ……と、意識的に追いやる日々である。

 

 この耽りっぷり、たいして目新しいことはないのでしょう。私は、世間一般よりかは、後追いでようやく耽るに至った、という感じがあります。

 ご覧の方からしたら「嬉しそうに騒いじゃって」とひんしゅくを買うことでしょう。

 

 が、今日は嬉しそうに騒ぎたいので、吾輩は、あえて遍歴を述べてみる。

 

 じつはけっこう前から細々と観ていたのは、デイリーポータルZの「プープーテレビ」。もとはと言えば、水元公園に珍獣が出る、というブログになんとなく辿り着いてから知り得たのだったが、デイリーポータルZとは、一体誰なのか、正体謎のまま、ヨーロッパ企画の「暗い旅」や、たまに更新される「森日記」をたのしみに観る日々が続いた。

 そして、併せてチェックしていたのは、「JUST FOR LAUGHS GAGS」。飛行機内でも流れている、カナダのドッキリ番組である。子供が仕掛け人のモノ、とくに、小便引っかけるやつが一番のお気に入り。

 しかしこれらはデータ量無制限のインターネットサービスが普及する前の話。チャンネルは、今尚放送は続いているが、これらをコツコツと観ていた私にとっては、ミュージシャンのPVやライブ映像を見て「わあ凄い。こんなのが載ってるの」と喜んでいた頃、に当たる。

 パケット通信の料金を気にして、発作的に生きてきた私であっても、なんとか抑えられていたし、たぶん、ユーチューブ側、ユーチューバー側だって、こちらへそこまで激しく訴求していこなかった気もする。(ユーチューブはどことなくおしゃれで、どちらかというと、マニアックなニコニコ動画の方が活況だった、気がする)

 太田上田や、石橋貴ちゃんねるず、神田伯山などといった、テレビの芸能人、あるいはテレビ局発信のものから、私の度の外れた耽溺は始まった。データ量実質無制限のWi-Fi接続という、途方もないほどの便利さが、耽溺の度をさらに加速させた。

 私のユーチューブ流行は、テレビ芸能関係に、とどまらなかった。

 日本の音楽家の動画に、初見の外国人が反応する様を撮った動画をしらみつぶしに観ていたら、パトリック・モーディという、オランダのミュージシャンによる愛と平和と積極性に満ち溢れた邦楽リアクションチャンネルに耽り、みのミュージックの音楽談義に耽り、「もしも科学」のバイエンスに耽り、服部文祥のサバイバル動画にも耽り、へライザーの芸能ゴシップネタに耽り、岡田斗司夫に耽り、ひろゆきに耽り。また芸能界。ナイツ塙、寺門ジモン、スピードワゴン小沢、永野。……とりわけ、絶好調なのは、テレ東大学。その中でも、ひろゆきと成田悠輔とパンダのトリオの妙は、筆舌に尽くしがたい。で、成田教授があちこちの動画にゲスト出演しているのも、見つくそう、とは思わないのに、指が勝手に動いてしまう、瀕死の溺れ具合。

 

 そして最近、恐ろしいなあ、と思うのは、あの、ショート、とかいう、とても短い動画コーナー。あれは、やばい。

 

 トップ画面に突如として現れたあのショート動画コーナーは、一度動かしてしまったら最後、ずーっと観てしまう。

 特段興味があるわけではないのに、犬が猫をぺろぺろする動画や、成金によるビジネスマナーの指導動画や、弁護士による法律の解説動画や、英語の発音の解説動画や、高級車に乗っている人の職業を尋ねる動画や、ボトルを2バウンドさせてゴミ箱に入れる動画や、ひろゆきの切り抜き動画や、電車の中で発狂する人の動画や、……

 と、延々、無限に続く。ぺっ、ぺっ、と次に飛ばすこともできるが、次に飛ばしている時点で、もう自動的に次を求めているのだから、際限がない。はしたないことである。

 

 帰宅後のルーティン、妻との会話ができなかった。ほんのささいな瑕疵のせいで、それが取っ掛かりとなり、寝る間も惜しんで、耽ってしまう。

 情報は、アイフォンの画面から、耳目を通って脳髄に至る。天敵から逃れるいわしの大群が一斉に突入するかの如く、轟々と音を立てて、無秩序なほどに膨大な数量の情報を、受け容れ続けて、止まない。

 途中、トイレに立って、鏡で顔を見ると、ビー玉のように腫れあがった目玉2つ。文字通りの血まなこは、血管が浮き出て、充血して、欲しがり、足りるを知らない、沼に溺れた鬼がこちらを見ていた。

 

 

 ルーティンどおりの妻との会話は、せいぜい30分に過ぎない。娘の状態によっては、即、寝室へ行かねばならず、たった10分で強制終了することさえある。

 しかし、それさえ踏まえることができれば、これほどのユーチューブ視聴に没入する例は、ほぼ無い。

 たった、それっぽっちのこと。

 たったそれっぽっちでも逃すと、もりもりと血道を上げ、現実味を忘れ、歯止めが効かない、情報欲求。これが、私の、21世紀型情欲。

 

 裏を返せば、ユーチューブなどの動画で得られる情報なんて、直接会話で得る情報量には、到底及ばない、と言えようか。

 

 命からがら耽溺の沼地から逃れ来て、ここで透かし見る本質は、対面の対人コミュニケーションで得る、情報量の多さ、速さ、か。

 ときには吐き気を催しかねないほどの臭みや、ほんの些細な仕草が端を発し、仲たがいや衝突に発展するかもしれない対面の会話、といった、そうした不衛生で面倒な、ごちゃごちゃした現実味の中でこそ、私は眠れる。そして、快活に目覚めることができる。

 

 

 ユーチューブの反対側に、読書というもの、あり。

 

 さらに、私小説作家、上林暁の「姫鏡台」がある。

 あらすじ……妹を題材にした、締め切り間際の原稿を、当の本人=妹に見られてしまい、「発表するのは止してほしい」となじられる。迫る締め切りと経済的困窮に、狼狽えた小説家と担当編集者とが、どうにかこうにか、妹を説得、承諾を得る。そんな妹に、感謝の意を表し、姫鏡台を買ってやる、というのがあらすじ。

 

 これは、ユーチューブの真逆である。対局である。

 

 情報の入り方、という理屈っぽい意味でも対局。「能動的」に「受動する」行為は、読書をおいて、ない。ないのだ! ……とかを、たまに、四角い頭、思う。

 

 それはそうだろうけど、そうではなく、上林暁のことに限りたい。

 上林暁の小説には、ほかに「白い屋形船」という作品がある。まさしく、この作品には、恍惚感・非現実的浮遊感。あまりの浮遊で、どこを読んでいるのか分からず気絶しそうになる、といった存在自体が幽霊みたいな小説だ。

 

 が、「白い屋形船」の幽霊や、ユーチューブや音楽の高揚と、まったく別のところには、「姫鏡台」がある。同じ小説家の、私はこっちを推したい。

 

 庶民的日常の中に、ふと現れる非日常。

 切実な、瀬戸際のヒリヒリしたところで、かといって、危機的状況を、その事件性を強調するでもなく、猥雑さを強調するでもなく、感情のもつれ、せめぎ合いをスリリングに強調するでもなく、そのとき人はどう思うか、どう行動するのかが、ひた、ひた、と書かれてある。浮遊感、ドライブ感など皆無。

 

 それは、私にとっては、まるで妻との会話のように、質素な、しかし、永遠に続くことを望みたくなるような、現実味である。