フレッシュフレイム   &-m



「フレッシュフレイム」

西洋哲学上りのアートフリーク、
&_mがつづる芸術コラム。

新たな表現との出会い。
そのとき、そこにたゆたうもの・ことを、
うつしだしてみたい。

 「アートと音楽―新たな共感覚をもとめて」展 フレッシュフレイム by エンドエム

エクスプロージョン!

感覚が巻き起こり、きらきらと舞っている。

ホログラムカードの中に、迷い込んだみたいだ。

 

東京都現代美術館で行われている「アートと音楽―新たな共感覚をもとめて」展では、デジタル技術の発展により、イメージも音もパソコン上で同じように創り出せる今日における、視覚芸術表現と音の表現とのまじわりと、そこから生まれる新たな表現を探ろうとしていた。音楽家の坂本龍一氏が総合アドバイザーを務めた。

 

セレスト・ブルシエ=ムジュノ≪クリナメン≫は、青くまあるい池に浮く無数の白い磁器のうつわが、不規則にぶつかりあって音を鳴らす作品だ。

こぉん、かぁぁん、

うつわの大きさやぶつかり方によって、音の高さが異なる。

青と白の色味と、高らかに響く音が、とても心地よいハーモニーを生んでいる。

緑と石の色味と、竹の透き通った音が調和する、鹿おどしと似た感覚だ。

 

八木良太≪Vinyl≫は、氷でできたレコードを聴く作品だ。

氷が融けるうちに、音にどんどん雑音が混ざって、音楽が乱れてゆく。

氷が融けるという変化を、見る変化だけでなく、聴く変化でも味わえることが、新しく感じた。

 

池田亮司≪data.matrix [n°1-10]≫は、宇宙の理、物質の構造など、目には見えないこの世の構造を数値化した10種類の映像を体感する作品だ。

デジタルの無機質なイメージと音は、味わいとして差異がないものと化しており、一体となってシャワーのように降り注いだ。

 

共感覚とは、一般的には、言葉に色がついて見えたり、音を聞いたときにおいがしたり、ばらばらだと思われている感覚がつながってうけとられる能力のことだ。

しかしこの展示で共感覚ということばは、アートと音楽とを同じ地平で扱う感覚、という、より広い意味で用いられているようだ。

スケッチでかたちを探り出すことも、音のリズムを作りだすことも、等しく世界を表現する手法のバリエーションの一つだ。

 

茂木健一郎は、著作『脳と仮想』で、視覚、聴覚といったそれぞれの感覚をつかさどる脳の領域の神経細胞一個一個には、差異があるわけではないが、結果としてまったく異なる感覚の質(クオリア)を生み出すのだと述べている。*1

 

表現を受け取るとき、脳の神経細胞にとって、視覚、聴覚、という区分はないのだ。アートも音楽もそれぞれ等しく受け取られる。結果として異なった感覚の質が生じているに過ぎない。その質も、五感という固定された分類に収められるものであるとは決まっていない。

 

さまざまな表現が色とりどりの感覚を爆発させる。

会場で見たカンディンスキーの絵(http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/138/)みたいだ。

たくさんの花火がぱんっ、ぱんっ、とはじけて、まざりあっている。

 

2月3日(日)まで。

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eastendTOKYOBOOKS(東京・清澄白河)では、津田恭子『BORDER LINE VISIBLEINBISIVLE』 展を開催中。

クールとキュートが拮抗し合う、スタイリッシュな世界。

こちらも2月3日(日)まで。

 

 

 

参考

※ウェブページのリンクは2013年1月26日現在

 

東京都現代美術館|MUSEUM OF CONTEMPORARY ART TOKYO

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/138/1

 

共感覚 - Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A

 

ryoji ikeda http://www.ryojiikeda.com/project/datamatics/

 

津田恭子『BORDER LINE VISIBLEINBISIVLE』 展 

http://www.smokebooks.net/about-smokebooks/schedule/

 

*1については次の本を参照しました。

茂木 健一郎『脳と仮想』(新潮文庫) 新潮社 2007、102ページ~103ページ

 

 

 

フレッシュフレイム by エンドエム 過去のコラムはこちら

 

 

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『Madness is part of Life(狂気は生の一部)』 フレッシュフレイム by &-m

 

ネットとプラスティックのボールでできた巨大な彫刻は、アスレチックのようだ。空中に浮かんでいる。くねくねとしたなまめかしいかたち、これはなんだろうとじっとみつめていると、ふと、中に人がいることに気付く。

なかに、入れる!

 

きしっ。きしっ、ぎゅっ、ぎゅっ、

きしっ。きしっ、ぎゅっ、ぎゅっ、

細い通路を抜けると、広い空間に出た。

視界が揺れて、目の前に、東京の空が広がる。

 

エスパス ルイ・ヴィトン東京にて、ブラジルのアーティストエルネスト・ネトによる『Madness is part of Life(狂気は生の一部)』が行われている。会場では、入れる彫刻≪A vida e um corpo do qual fazemos parte(われわれは生という体の一部)≫を含む計4点の彫刻が展示されている。展示全体のタイトル『Madness is part of Life(狂気は生の一部)』は、私たちの日常が政治的な正しさ(PC)や生産に支配されている現状をあらわし、世界が本当はもっといぶきとうずきとに満ちていることを示そうとする。

吊り下げられた不安定な路を全身でたどる、こんなからだ体験は大人の日常にはあまりない。

作品をくぐりぬけながら、私たちの身体と、身体の置かれる場とを意識する。

 

子どもにとってはまちなかにあらわれた遊び場!

あるいて ころがって ねそべって

こんにちは わらって こんにちは。

 

2013年1月6日(日)まで。

エルネスト・ネトの弟子エヴァンドロ・マシャードによる映像作品も展示中。

 

参考

※ウェブページのリンクは11月30日(金)現在

 

エスパス ルイ・ヴィトン東京

http://espacelouisvuittontokyo.com/ja/

 

駐日ブラジル大使館

http://www.brasemb.or.jp/culture/art_02.php

 

 

フレッシュフレイム アーカイブはこちら

 

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夏の芸術祭 /フレッシュフレイム &-m

○大地の芸術祭

 

大地の芸術祭は、新潟県越後妻有地域(十日町市・津南町)で行われている大規模な国際展。2000年にはじまり、3年に1度行われ、今回で5回目だ。

 

こ の芸術祭がはじまるきっかけは、新潟県が企画した地域活性化事業「ニューにいがた里創プラン」。この事業に基づき、十日町地域の6市町村(現在では合併に より十日町市と津南町の2市町)が、「越後妻有アートネックレス整備構想」というアートを活用した地域活性化事業への取り組みを始め、その成果を発表する 場として、大地の芸術祭が設けられた。

 

どんとたたずむ山 ひろいひろい空 だんだん棚田

そのなかに ぽこんぽこんと 作品は、

自然と人の営みとを 織りなしている。

 

自然と一体になった作品や、地域の暮らしを活かした作品、廃墟や廃屋を活用した作品など、ひとつひとつの作品が、この地と向き合い、対話して、実をつけている。

 

5回目を迎えた今回、作品や施設など、これまでの芸術祭の歴史が、蓄積していることが感じられた。また、地元の方々による案内や料理の提供などもあり、人々のエネルギーもまたたくわえられていることが印象的であった。

 

9月17日(月)まで。

 

○福島ビエンナーレ

 

福島ビエンナーレは、福島を拠点に活動する若い作家に発表の場をと、2004年にはじまった国際展。2年に1度行われ、今回で5回目を迎える。中心となって運営しているのは福島大学の学生たちだ。

 

今回のビエンナーレ全体のテーマは、「SORA」だ。これは、高村光太郎『智恵子抄』に収められている「あどけない話」よりとったものだという。

智恵子が「ほんとの空」と称した福島の空。福島の地がもつ魅力やイメージが出発点になる。

加えて、「震災復興祈念事業」とも謳われているが、いま、福島から発信するというと、東日本大震災や、原発事故のことがある。

 

放射能防護服をまとい、傷を負いながら、ヘルメットを外し、力強く立ち上がる子どもをあらわした、ヤノベケンジの巨大彫刻≪サン・チャイルド≫。

放射能を写し取った武田慎平の銀塩写真≪痕-写真感光材による放射能汚染の記録≫。

いわき市の2011年の闇を閉じ込めた、河口龍夫の彫刻≪DARKBOX2011≫。

 

出品作品は、福島在住の若い作家による作品から、世界で活躍するベテランの作家による作品まで、多岐にわたる。そのどれもが、東日本大震災や原発事故を直接のテーマにしているというわけではない。

それでも、いま、福島から世界の空へ発信するのだという気概に満ちていた。

いくつもの、つくること、いきることへ想いと意志とが放たれていた。

 

9月23日(日)まで。

 

 

参考

※ウェブページのリンクは2012年9月2日現在

 

大地の芸術祭の里

http://www.echigo-tsumari.jp/

 

新潟県「NPOと行政の協働事例集」事例18(平成21年2月)

http://www.pref.niigata.lg.jp/HTML_Simple/jirei18_tokamachi_ken_p40_41,0.pdf

 

十日町市公式ホームページ「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」とは

http://www.city.tokamachi.niigata.jp/kanko/10170400003.html

 

福島現代美術ビエンナーレ2012 - SORA -

http://wa-art.com/bien/bien2012/index.html

 

高村光太郎『智恵子抄』

 

ヤノベケンジ『サン・チャイルド』光臨プロジェクト in 福島現代美術ビエンナーレ2012

http://tenpo.ne.jp/KY001/project.html

 

SHIMPEI TAKEDA

http://www.shimpeitakeda.com/

 

河口龍夫

http://www.tatsuokawaguchi.com/

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川内倫子「照度 あめつち 影を見る」 by フレッシュフレイム &_m 

夢を、手繰るみたいだ。

 

ほうわりと光をたたえた画面は、

焦点があっているのにぼんやりとして

起き抜けに夢を手探りで思い出すような、浮遊感がある。

日常がぺろりとはがれて、ときとところを越えて

雄大さの直中へと、接続してゆく。

 

東京都写真美術館で行われている川内倫子の展示は、

写真と映像の作品による、3つのシリーズから構成されていた。

家族の光景、野原の虫、道端の草花など、日常の景色をまばゆい光をもって写しだす≪照度≫。

野焼き、お祭り、嘆きの壁、星、この命を越えてゆく営みを描いた≪あめつち≫。

鳥が群れで動く、その影を写した映像≪影を見る≫。

 

川内倫子の作品は、光に満ちたタッチが、モチーフの固有性を包み込んで、

遠く遠く、かなたの雄大なイメージを呼び起こすようだ。

身近なものごとを写していても、ありきたりのものごとである感じがしないし、

逆に野焼きや嘆きの壁といった特徴的なものごとを写したとき、モチーフのもつイメージのみにとどまらない普遍性を感じさせる。

人間を超えるものごとが感じさせる、果てしなく雄大なイメージ。

 

先日、日本で日食が観測された。食が最大になったとき、暗くなり、あたりが少しひんやりした。

21世紀のいま、日食のからくりを知っている私たちにとって、

月が日を遮るから、暗くなり涼しくなることはなんの不思議もないことかもしれない。

しかし、私たちは、日食のからくりを知っていても、

なぜそれが存在し、そのようなバランスをとっているのか、まったく知らない。

当たり前に日が昇り、日が沈む、人間が生きている「いまここ」という地平の向こうの、

果てしないなにかを、私たちは知らない。

 

それでも、作品にあふれているのは、そのような果てのなさへの恐れではない。

繰り返し繰り返しの人間の営みのなかで、それらひとつひとつと向き合い、かみ砕き、

想いを重ね、命をすり減らしたり、輝かせたりする、厳かなまばゆさだ。

雄大さの直中へと包まれてゆく、心地よさとやさしさだ。

 

7月16日(月)まで。

 

参考

※ウェブページのリンクは2012年6月24日現在

 

 

○東京都写真美術館

http://syabi.com/contents/exhibition/index-1593.html

http://syabi.com/contents/exhibition/topic-1593.html

 

○川内倫子公式ホームページ

http://www.rinkokawauchi.com/main/index.html

 

○展覧会図録

川内倫子『照度 あめつち 影を見る』青幻舎

 

2012521 金環日食

http://naojcamp.nao.ac.jp/phenomena/20120521/

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はじまりの記憶 杉本博司  フレッシュフレイム <&-m>

芸術を通じた、世界に対する止むことのない探究。

それは杉本博司が、

そして人間が共通に抱えている解けない謎への挑戦である。

 

『はじまりの記憶 杉本博司』は

日本、アメリカ、フランス、オーストラリアと杉本博司を追いかけ、

作品の制作場面、展示風景、日常の様子を映し出したドキュメンタリー映画だ。

 

きらきらと、ときに茶目っ気に満ちたまなざしで 世界を見つめる杉本博司の姿。

無邪気で、とてもしなやかだ。

語られる言葉がじわりと響く。

深く、深く、世界の根元を見つめていることが伝わってくる。

 

杉本博司の作品は、形象や構成の美しさはもちろんのこと、

物としての作品を超えた物語や概念に魅せられる。

杉本の姿を追ううちに、それらの物語は、

人間とは何か、この世界とは何か、ということに対するアイディアなのだと感じられた。

 

渋谷慶一郎の幾何学的な音楽が添えられ、

静謐なインスタレーション作品の中にいるかのような映像体験であった。

 

映画は全国順次公開中。

ギャラリー小柳で行われている展示、

原美術館での展示も併せて味わいたい。

 

<参考>

 

Hiroshi Sugimoto

http://www.sugimotohiroshi.com/

 

映画『はじまりの記憶 杉本博司』公式サイト

http://sugimoto-movie.com/

 

Gallery Koyanagi

http://www.gallerykoyanagi.com/

 

原美術館

http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html

http://www.haramuseum.or.jp/jp/common/pressrelease/pdf/hara/jp_hara_pr_Sugimoto_120425.pdf

 

data | ATAK

http://atak.jp/data/

 

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「抽象と形態:何処までも顕れないもの」 フレッシュフレイム  &-m

「抽象と形態:何処までも顕れないもの」

 

対象と向き合い、そのものをあらわそうとする試み。

 

DIC川村記念美術館で行われている企画展「抽象と形態:何処までも顕れないもの」では、

現代の7人の作家を中心に

そのものを表現しきろうとする抽象作品を

その表現形式に着目し、比較させながら展示していた。

 

五木田智央の作品は、白と黒とであらわされた絵画だ。

閑散とした風景に人型が浮かぶ。

特定の時間や場所を超えて、身体のなかに蓄積したいくつもの心象を

揺さぶり起こすようだ。

会場では、五木田の色味が、

パブロ・ピカソ≪シルヴェット≫の色味と比較され展示されていた。

 

アンダース・エドストローム≪無題≫は、

どこまでもたゆたう水面と対岸の風景を撮った写真だ。

ひとつづきの映像の一部を切り取ったみたいに、どこか焦点が定まらない。

しかし、写っているなにかではなく

そこに浸されている空気や、かたちや、心や、

そういったすべてを、しんとみつめかえしてくる。

画面にあらわれたものを超えて、深遠な領域を呼び起こす世界観は

ヴォルスの作品≪無題≫からも感じられるようだ。

 

エルンスト・H. ゴンブリッチは、その著作『美術の物語』のなかで

モダンアートの試みを「実験」と呼んでいる。※1

目で見たこと、心が感じることを

思い込みや先入観なくとらえ、新たな表現を発見する「実験」。

 

ひとつひとつの表現の発見は、作家固有のものの見方から生まれたものだが、

それらが文化や時代を超えて、共有されるとき、

ものそのものの本質を、そして人間の考え方や在り方を浮かび上がらせる鏡になる。

 

4月15日(日)まで。

 

参考

※ウェブページのリンクは2012年4月11日現在

 

○DIC川村記念美術館

http://kawamura-museum.dic.co.jp/exhibition/index.html#admission

プレスリリース

http://kawamura-museum.dic.co.jp/release/pdf/111206.pdf

 

※1については次の本から引用しました。

○エルンスト・H. ゴンブリッチ『美術の物語』2011、427ページ

 

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ジョセフ・ナジ振付・出演『カラス/Les Corbeaux』  &_m

 

 

カッ

と大きくひろげた羽の先まで

満ち満ちた存在感。

 

身体を通して、イメージは、存在となり降り立った。

 

コンテンポラリーダンスの公演を観に行くのは初めて。

ピナ・バウシュの映画が公開になることを知り、興味をもった。

コンテンポラリーダンスは、演劇ではなく、

モダンダンスではなく、バレエではなく…

明確な定義はないらしい。言葉だけではなんともわかりづらい。

百聞は一見に如かず。ひとまず体験してみようと勇んででかけた。

 

幕が開ける。

暗闇。空気はぴんと張りつめている。

木管楽器の甲高い音が響く。時折吹きながら叫び、

叫びながら吹き、穏やかならない気持ちがする。

 

静かに、絵のシーンが始まる。

線のような、図形のような、黒いインクで描かれる形象が踊る。

続いて砂と缶のシーン。

天井から落ちてくる砂と、ガムランのような音楽が絡み合う。

そして、身体のシーン。

伸ばす、ころがる、ねそべる。

はじめは身体そのままで、

やがて、鼻、てのひら、少しずつ黒いインクに染まり、

全身、黒になる。

 

つややかに光る。カッと羽を開く。

神々しさすら感じる。

 

なにもない場に現れた黒の存在感は、圧倒的で、

私は、全身でその存在と対峙する。

 

ステージにあらわされていたのは、

ごみを荒らす厄介なカラスとはまったく違う姿。

公演後のアフタートークで、ジョセフ・ナジは、

「カラスはハンガリーでは知恵のシンボルであり、

長寿のシンボルでもある」と語っていた。

今までに知ることのなかった、ひとつの、神話的存在をみた。

 

『カラス/Les Corbeaux』は現在全国巡回中。

3月9日(金)、10日(土)富士見市民文化会館キラリ☆ふじみでの公演がラストチャンス。

 

ピナバウシュの映画は現在順次公開中。

 

 

参考

 

※ウェブページのリンクは2012年3月5日現在

 

ジョセフ・ナジ振付・出演『カラス/Les Corbeaux』 | 世田谷パブリックシアター/シアタートラム

http://setagaya-pt.jp/theater_info/2012/02/les_corbeaux.html

 

乗越 たかお『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイド HYPER』

(コンテンポラリーダンスの定義については、本書8ページを参照しました。)

 

富士見市民文化会館 キラリ☆ふじみ

http://www.kirari-fujimi.com/

 

映画『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』公式サイト

http://pina.gaga.ne.jp/

 

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「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」 &_m

 

 

霊、臓物、死、

グロテスクなものを描いているのに、不思議とこわさはない。

むしろ、やさしく、つつみこまれるような気になる

幻想的な世界だ。

 

現在、横浜美術館で行われている

「松井冬子展 世界中の子と友達になれる」では、

初期の作品から最新の作品に至るまで、

松井冬子の作品を、そのモチーフごとに紹介している。

 

満開の桜が水面に写り、

ぱっくりひらいた入り口からこの世の向こうへと溶けてゆきそうになる作品、

《この疾患を治癒させるために破壊する》。

 

見つめていると群れになった蜂があらわれ、

たちまち女の子の世界がこの世にはないことに気付く、

《世界中の子と友達になれる》。

 

会場にはデッサンや構想図も展示されており、

作品が、丁寧に生み出された世界なのだということが伝わってくる。

 

松井冬子は、自身の作品について、インタビューにおいて

「身代わり」、「厄払い」と語っている※1。

作品が、辺境の世界へと深く切り込むことで、

それをみた人は、

闇の世界をなだめ、生へのエネルギーを得る。

 

不思議とこわさを感じなかったのは、きっと

誰もが奥のほうにひそめている、

妬みや、痛みや、悲しみに、寄り添っているからなのだろう。

 

松井冬子の世界を通り抜けるとき、

日本画のやわらかな質感につつみこまれ、

あたたかな闇のなかで、やさしくなでられるような気がする。

 

3月には映像作品の展示も始まるそう。こちらも気になるところ。

会期は3月18日(日)まで。

 

 

参考

 

※ウェブページのリンクは2012年2月11日現在

 

松井冬子展 世界中の子と友達になれる

http://www.yaf.or.jp/yma/jiu/2011/matsuifuyuko/

 

松井冬子/まついふゆこ/Fuyuko MATSUI

http://matsuifuyuko.com/

 

※1「身代わり」「厄払い」と語っていることについては、

次の2つのインタビュー記事を参照しました。

 

インタビュー「画家 松井冬子さん」 | ヨコハマ・アートナビ

http://www.yaf.or.jp/magazine/2011/11/post-43.php

 

「理性ある狂気」で描く心の風景 松井冬子インタビュー -インタビュー:CINRA.NET

http://www.cinra.net/interview/2011/12/02/000000.php

 

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「瀧口修造とマルセル・デュシャン」 &_m

 

瀧口修造とマルセル・デュシャン、

二人のやりとりそれ自体が、ひとつの芸術作品のように感じられた。

 

2012年1月29日まで千葉市美術館にて行われている

「瀧口修造とマルセル・デュシャン」展では、

二人の活動、出会い、交流を、膨大な書簡や書物、作品を通じて丁寧に紹介していた。

 

瀧口修造は、日本の美術評論家。

著作を通して日本にいち早くシュルレアリスムを紹介し、

また、自身も、言葉や形象による表現を行った。

一方、マルセル・デュシャンは、フランスの芸術家。

男性用便器をはじめ、既製品を美術作品として提示した

「レディ・メイド」と呼ばれる作品がとりわけ広く知られている。

 

二人は、1958年に瀧口が渡欧した際、

サルヴァドール・ダリの家で、遭遇する。

 

それ以前にも、瀧口は、著作の中でデュシャンについて触れてはいたが、

出会いの後、それぞれの著作物を交換し合ったり、

瀧口の「オブジェの店」という構想にデュシャンのサインを寄せてもらったり、

瀧口が『マルセル・デュシャン語録』や

岡崎和郎の協力を得てデュシャンの作品の一部を立体化したオブジェを制作したりと、

二人には様々なかたちで関わりが起きている。

 

 

▲ 「甘美な死骸」のイメージ
▲ 「甘美な死骸」のイメージ

二人の交流をみていて、

「甘美な死骸」のことを思い出した。

 

「甘美な死骸」は、シュルレアリストの間で行われた一種の遊びだ。

数人の人が、それぞれ部分を書き、一つの文章や絵を完成させる。

それぞれの人は、書いているとき他の部分を見ることはできず、

完成したときに初めて全体像が見える、偶然性に満ち満ちている。

 

意図せぬ出会いによって生じた二人の交流は、

大仰な意義や権力を示すものではなかった。

それは、戯れ、共鳴し合い、ひとつの美を生んでいた。

 

参考

※ウェブページのリンクは2012年1月18日現在

 

千葉市美術館

http://www.ccma-net.jp/exhibition_end/2011/1122/1122.html

 

シュルレアリスム、甘美な死骸について

http://www.sur2011.jp/gaspard_lisa.html

 

『デュシャンは語る』 筑摩書房、1999

 

『コレクション滝口修造. 3 (マルセル・デュシャン.詩と美術の周囲.骰子の7の目.寸秒夢)』 みすず書房、1996

 

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